見出し画像

現代の厄年?「サンドイッチ世代」

どうやら、私は「サンドイッチ世代」という厄介な世代らしい。欧米でいうこの世代の定義は、ほとんどの場合、40代後半から50代前半の壮年期の人々をさす。子供がまだ小さく手がかかる年で、同時に両親も高齢になり、健康が危うくなってくる。このふたつに挟まれ、さらに、社会的、仕事上でも責任のある役職に配属されるようになってくるため、どこを向いても、がんじがらめのストレスで苦しくなる世代だという。考えてみれば、日本にも昔から「厄年」というものがある。その定義では、キツくなってくる厄年世代は、昔は40代前半となっているが、現代の統計ではこれが10年くらいずれていても妥当ではないだろうか。昔に比べると私たちは長寿になり、結婚、出産も遅くなった。

しかも、発展国の医療の進化に伴う長寿文化が、私たちを幸せにしたのか、という質問もある。これは、すぐには答えられない大きな質問だ。最近、ちょっとしたこがあり、このリンクを読んでいた。キューブラ・ロスの「悲嘆の五段階」に関する、現代の解釈についての記事だ。 著者:平木典子(統合的心理療法研究所所長)

抜粋・要約:現代の別れと悲しみの新たな様相は、大きく2つのタイプとして取り上げられるようになった。一つは、「長引く別れ」(Okun&Nowinski, 2011)であり、もう一つは「さよなら」のない別れ(Boss, 1999)である。前者「長引く別れ」については、現代医療により多くの人々がゆっくり亡くなってゆくことを可能にし、患者も家族も緩慢な死と共に生きるという新たな悲嘆に直面させられている。また、後者「さよなら」のない別れは、「さよなら」を伝え合うことができない曖昧な別れである。この「曖昧な喪失」には、身近に居るにもかかわらず日常的なやり取りが欠如したり、理解不能な言動が出現して、心が失われていく心理的喪失もある。

これをつらつらと考えていた時、ふと何年か前に観たミヒャエル・ハネケの壮絶な映画「愛、アムール」を思い出した。このハネケ氏は、映画界の問題児、ともいえるドイツ語圏(オーストリア出身)の辛口監督だ。この映画が当時リリースされた時は、英ガーディアン紙の批評家までも「ファシスト(ナチス)が愛のテーマの映画を創ったらこうなる」と冗談交じりにからかっていたほどだった。一筋縄ではいかない、究極の「愛」のストーリーでもある。ズバリと言わせていただければ、上記の「愛する人との長引く別れ、また、愛のあるはずの家族との曖昧な心理的喪失の段階」をテーマとしている。愛する妻の認知症、介護の甲斐もなく日に日に悪化する症状、不毛な介護による疲労と絶望、そして、全く話の噛み合わない娘・・・。

ここでは、主人公が経験する、象徴的な「3つの幻」を以下、集めてみた。
ひとつめは、「ただ悪化するとわかっている上での介護の不毛さ、未来への不安と恐れ」を映し出したかのような幻。

ふたつめは、美しいアイコニックなシーン。妻が再び、ピアノを弾いている幻。これは、音楽教師であった妻の教え子のピアニストから寄贈されたテープを聴いている時に現れた幻だった。ヘネケ監督は、ほとんどサウンドトラックを使わない監督で、「沈黙」の使い方に非常に長けている。幻を観た後、主人公がテープを止めた時の沈黙、「間」が絶妙だ。

そして、ラストシーンに現れる幻。どこからともなく、台所から聞こえてくる食器を洗う音。その音に惹かれて、台所に行く主人公と、妻が食器を洗っているシーン。この何気ない日常の素晴らしさ・・。この「何気ない、普通の、日常の光景」は二度と戻ってこない。

私の母が認知症を患ってから、3、4年ほどになるだろうか。これからも、曖昧で、長引く別れだ。実のところ、まだ上記リンク、キューブラ・ロスの「喪失の5段階」の1段階目だ。つまりは、「否認と孤立」の段階。

上の食器を洗うシーンでは、ショックで息をのんでしまった。そうだ、母が台所で食器を洗ったり、私や子供におにぎりや卵焼きを作ってくれることは2度とない、と悟った。あの、母の背中を実家の台所で見る、という些細な日常光景は、戻ってこない。まだ信じられない。私は、この映画に出てくる、何もわかっていない「大ボケ」娘だった。やはり、「否認と孤立」なのか。彼女の年代も、やはり50代前半くらいの「サンドイッチ世代」だ。仕事や家族のために、多忙極まる生活を営んでいるようだ。これは、よく理解できる。忙しさのあまり、精神的余裕も持てないのだった。

では、この辺で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?