【前編】1997 ファッションビッグバン(1997 Fashion Big Bang):パリ・ガリエラ美術館にて開催、ファッション史上の分岐点を辿る展示
パリのガリエラ美術館では、ファッションにとって重要な転換点となった「1997年」にクローズアップした特別展が開催された。
1997年と言われて何を思い浮かべるであろうか?
この文章を読んでいる人の中にはまだ生まれてもいなかったという人もいるであろう。
香港返還、ダイアナ妃の衝撃的な死、映画『タイタニック』の公開など…
人によってはずいぶん遠い昔のことに感じることもあれば、ついこの前のように感じることもあるであろう。
1997年が特別な年になる予兆は、1996年10月に開催されたプレタポルテのショーの段階ですでにあった。
そして1997年1月のオートクチュールでは、ファッション界の大物たちが待望の初コレクションを発表し、当時は瀕死の状態にあったオートクチュールを見事に蘇らせた。
フランス版『VOGUE』はこの快挙を「ビックバン」(Big Bang)と呼び、その影響は、ファッション界全体に広がっていくことになる。
そんな1997年から四半世紀が過ぎた今、フェミニズム、多様性、エコロジー、文化の盗用など様々なテーマを前に、クリエーターやアーティストたちは、いかにして自分の哲学や思想を世に問うかという問題に直面している。
本展は、決して、古き良き(といっても僅か20数年前のことなのだが)時代を懐かしむものではなく、ある一時代の創造的エネルギーを追体験することによって、今のファッションの在り方を問うものなのである。
ファッション界においては、画期的なショーやクリエーション、重要なイベント、象徴的な人物の出現などなど。
本展は、1997年が特別であることを証明する数々のテーマやキーワードを時系列に沿って紹介していくという構成となっている。
それでは早速本展の内容を紹介していくこととしよう。
1. Les défilés prêt-à-porter printemps-été 1997
最初のブースには、1997年の春夏コレクションを彩ったルックが並ぶ。
1994年にグッチのアーティスティック・ディレクターに就任したトム・フォードは、1997年の春夏コレクションで1970年代の美学にインスパイアされた快楽主義的で奔放なコレクションを発表した。
特にこのGストリングは、人々の露出狂とフェティシズム、そして見る者の覗き見趣味を刺激するものであった。
オイルを塗った小麦色の肌の男女が着用したGストリングは、当時のグッチのイメージを決定づけた「ポルノ・シック」の象徴となった。
このユニークな下着の成功により、下着は、隠すものから誇りを持って身につけるものへと変わっていった。
そしてその1日違いで発表されたコム・デ・ギャルソンの「ボディ・ミーツ・ドレス、ドレス・ミーツ・ボディ」コレクションは、衣服の創造に疑問を投げかけた。
また1997年の春夏コレクションで、マルタン・マルジェラは、古典とドレープ技法の基礎を見直そうとした。
しかし、その結果生まれたのは、洗練されたイブニングドレスではなく、どのデザインスタジオにもある「ストックマン」(Stockman)のトルソーの胸像をベースにしたコレクションだった。
ストックマンとは、1867年創業のパリの老舗マネキンメーカーであり、その質の高いトルソーは、著名なデザイナーのアトリエで好んで使用されるものであった。
このベルギーのクリエーターは、通常は隠されている、表には見えない服作りの途中の段階を強調することで、クリエーションの本質に触れた。
マルジェラは、次の1997年秋冬シーズンにおいてもこのアイディアを引き続き追求し、生成りのリネンやペーパーパターンを本物の服のように着用した。
また本展がクローズアップする1997年の前年の1996年の7月、ジャンフランコ・フェレがクリスチャン・ディオールのアーティスティック・ディレクターから退き、後任を探すことが発表されると、ファッション界は衝撃を受けた。
ヨウジヤマモトもこの出来事を深く受け止め、1997年の春夏コレクションで、パリのオートクチュールの巨匠たちにオマージュを捧げた。
大きな帽子はジャック・ファット(Jacques Fath, 1912-1954)のシルエットを、テーパードはクリスチャン・ディオールのニュールックを、ツイードのアンサンブルはガブリエル・シャネルの象徴的なスーツを想起させるものであった。
ヨウジヤマモトは、輝かしい過去を1997年という今に呼び起こした。
それはインスピレーションに従い作りたいものを作るだけではなく、過去および現在に目を配りながら世の中に自身のファッションの意義を問いかけるというデザイナーの姿勢を語るものである。
また1997年春夏は、美容整形手術に関する議論や、男子学生のクローン作製をめぐる論争が巻き起こり、理想的な身体という概念にも疑問が投げかけられたのであった。
2. Les défilés haute couture printemps-été 1997
1946年には200社あったファッションハウスは、1996年にはわずか15社になっていた。
いわば斜陽産業という烙印を押されてしまったファッション業界が生き残るためには、「メディアによる反攻」が必要であるとされた。
またこの時期、各ファッションブランドは、次々と新しいデザイナー・ディレクターを迎えた。
1996年7月、ジャンフランコ・フェレが退任すると、世間はクリスチャン・ディオールの後継者をめぐって様々な憶測を巡らせた。
結果的に同年の10月、ジョン・ガリアーノがディオールのデザイナーに就任した。
続いてジバンシィにはアレキサンダー・マックイーンが就任した。
これらの2人の若手デザイナーに続き、ジャン・ポール・ゴルチエとティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler;1948-2022)という1980年代のプレタポルテを牽引したデザイナーもオートクチュールに参入した。
こうして幕を開けた1997年春夏のオートクチュール・ウィークは、パリがファッションの中心地に返り咲くには十分な成果と影響を持ったものとして人々の注目を集めた。
わずか当時27歳であったアレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)は、クラシックなオートクチュールを代表するブランドのひとつであるジバンシーのデザイナーに抜擢された。
このイギリス人デザイナーは、4つのGが正方形に向かい合ったジバンシーのロゴと古代ギリシアの装飾文様との共通点を見出したことから、ギリシア神話をコレクションの出発点とした。
ところがジャーナリストは、彼の若さを考慮することなくこの最初のコレクションを痛烈に批判したために、マックイーンは復讐の念を抱きつつ、次のコレクションに取り組んだのであった。
前述の通り、1996年10月にディオールのデザイナーに就任したジョン・ガリアーノは、1984年から自身のブランドを率いてきたほか、1995年にジバンシィアーティスティック・ディレクターに就任するなど、すでにそのセンスとオリジナリティは世間が認める存在であった。
また過去の豪華絢爛な姿にノスタルジーを抱くガリアーノは、美しき過去を常に自分の作品に取り込もうとし、一部のジャーナリストからは「ジョン・ガリエラ」(John Galliera)というニックネームで呼ばれていたほどであった。
1997年春夏のデビューコレクションでは、民族学や歴史学などから様々な過去のモチーフを引用したほか、クリスチャン・ディオールのファーストコレクションである1947年春夏コレクションの「バー」スーツといったファッション史におけるアイコン的ルックも、半世紀の時を経て取り入れていた。
このコレクションは、ジョン・ガリアーノがクリスチャン・ディオールをオートクチュールとプレタポルテにおいて唯一無二のメゾンに押し上げる14年間のキャリアの幕開けとなった。
1995年と1996年にそれぞれジバンシィとクリスチャン・ディオールのアーティスティック・ディレクションを引き継ぐよう打診されたジャン=ポール・ゴルチエ(この二つは先に言及したジョン・ガリアーノが引き受けた)。
下着ルックやボンデージファッションで1980年代に話題を呼んだゴルチエであったが、彼自身のブランドのランウェイショーは、オートクチュールの伝統的な規範を生かしたものとなった。
ゴルチエは、その独創性を持って今やパリのオートクチュールの偉大な伝統の一部となりつつも、そのコードを刷新しようとしていた。
ゴルチエは、2020年のコレクションを期に引退を表明した。
続いて紫色の光に照らされたブースでは、懐かしい形のiMacが展示されていた。
このiMacのディスプレイに次々と商品が写される通り、今では当たり前のようにファッション通販サイトが利用されているが、ファッションは、ウェブを活用した最初の産業のひとつであった。
パリのサントノレ通り213番地( 213 rue Saint Honoré)に「コレット」(colette)をオープンしたコレット・ルーソーと娘のサラは、開店と同時に、ウェブサイトを開設し、2000年代初頭からオンライン販売を開始した。
いち早くウェブを活用したこのブランドは、社会学者でジャーナリストのフランチェスコ・モラーチェ(Francesco Morace)がイタリア語の「コンセプチュアル・ストア」(negozi di concetto/ conceptual stores)の概念をフランスに定着させる役割を果たした。
Style Design Art Foodというスローガンを掲げた母娘は、ブティック、書店、レストラン、展示ギャラリーなどを一体化させることを目指した。
プッチ(Pucci)のエクスクルーシブモデルやマルタン・マルジェラのウィッグなどのコレクションを展開するなど、有名ブランドと新進デザイナーを自由にミックスし商品を生み出した。
また当時パリでは手に入らなかったスニーカー、化粧品、ハイテク機器などをセレクトし、店頭に並べた。
瞬く間にコレットはパリの「必見のファッションスポット」となったが2017年12月20日に閉店、これはプレスにとって「ひとつの時代の終わり」を意味するものであった。
1992年に初めてオートクチュール・コレクションを発表したティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler;1948-2022)は、昆虫の羽音で始まる、彼のキャリアの中で最も象徴的なコレクションを1997年に発表した。
ミュグレーは次のようなコメントを残している:「私は、昆虫や、その甲羅、そしてその未来的なグラフィックにいつも魅了されてきた。昆虫は極めて儚く、軽く、そして膜で覆われ守られている。まるでドレスを着た女性のように」
またティエリー・ミュグレーは、クロード・ニュリザニー(Claude Nuridsany;1946-)とマリー・ペルノー(Marie Pérennou;1946-)による小さき生き物たちを描いた映画『ミクロコスモス』(Microcosmos; 1996年11月公開)、博物学者ジャック・ブロス(Jacques Brosse;1922-2008)の作品『L'Insecte』(1968年)、ベルギーのシュルレアリスム画家フェリックス・ラビス(Félix Labisse;1905-1982年)の作品からインスピレーションを得たという。
3. Les défilés prêt-à-porter automne-hiver 1997-1998
続いて展示は、1997-1998の秋冬のプレタポルテコレクションに移る。
1996年、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)は、当時フランスでは無名だったイスラエル系アメリカ人アルベール・エルバス(Alber Elbaz;1961-2021)をデザイナーとして招き、メゾンのイメージを一新した。
彼の最初のコレクションは、実用主義とファンタジーの両方を備えた、時代の精神に沿ったものだった。
アルベール・エルバスはその才能、ユーモア、慈悲深さですぐに人々を虜にし、イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュおよびランバンでも成功を収め、2020年、パリに独自のブランド AZファクトリーを設立した。
新たな物語の始まりに人々の心は浮きだったが、2021年4月、エルバスは突然この世を去った。
参考:
1985年に自身の名を冠したブランドを創設したマルティーヌ・シットボン(Martine Sitbon;1952-)は、このコレクションでは森に迷い込んだ女性の物語を想像した。
サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones; 1833-1898)やギュスターヴ=アドルフ・モッサ(Gustav-Adolf Mossa; 1883-1971)のラファエル前派・象徴主義の絵画からインスピレーションを得たというそのコレクションは、彼女の音楽や色彩のセンスおよび英国文化への情熱の思い出、仄暗い青春時代の感情が混ざり合ったものでもあった。
フランスの映画館での公開と同日にカンヌ国際映画祭のオープニングで上映されたリュック・ベッソン(Luc Besson; 1959-)監督の『フィフス・エレメント』(The Fifth Element;1997)。
ジャン=ポール・ゴルチエが衣装デザインを手がけたこの映画は、映画史上初めて、アメリカの興行収入のトップに躍り出たフランス映画であった上に、1998年にはセザール賞にノミネートされた。
ゴルチエは、未来の世界の人が着るものとしてイメージされがちな宇宙服や戦闘服を採用するのではなく、1990年代のワードローブを独自のセンスによってアレンジし映画に提供した。
グラマーかつエレガントな雰囲気、意外な使われ方をするランジェリー、引用されるストリートウェアやアンダーグラウンド・カルチャー、絶妙に取り入れられたユーモアとセクシュアリティなどなど、その衣装たちは、今見ても常に新しい発見がある。
「ブラック・パームス」(Black Palms)と題されたラフ・シモンズのこちらのコレクションは、ユースカルチャーを象徴するSEX PISTOLSに着想を得たとされており、ショーのオープニングを飾ったマネキンの背中に描かれたモチーフにちなんだもの。
また、オリバー・ストーン(Oliver Stone;1946-)とブルース・ワグナー(Bruce Wagner;1954-)によるTVシリーズ『ワイルド・パームス』(Wild Palms;1993年)のタイトルにも因んでおり、ラフ・シモンズのファンの中でも人気の高いコレクションである。
このモデルの肌に黒いヤシの木を描いたのは、アントワープ出身のプロのメイクアップアーティスト、ヨス・ブランズ(Jos Brands)であり、彼は他のモデルの胴体にも2つのだまし絵のタンクトップを描くなど、コレクションに遊び心を添えた。
会場を回っている人は、この突然の黒色の「空白」に驚かされることになる。
ここには、エディ・スリマン(Hedi Slimane;1968-)が1997年7月に公開したサンローランの1998年春夏コレクションの資料が展示されるはずだったが、残念ながら実現しなかった、とのこと。
1996年7月、ピエール・ベルジェ(Pierre Bergé;1930-2017)はエディ・スリマンをイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ(Yves Saint Laurent Rive Gauche)のメンズ・コレクション・ディレクターに任命した。
エディは、数人のモデルを起用し、1997年7月、ジャーナリスト向けに小さなショーを開催した。
このイベントがディオールのディレクターとしてのエディの初めての仕事となったが、残念ながら有用なアーカイヴは残っていない。
その後、2000年から2007年までエディは、ディオール・オムの責任者として話題を呼んだ。
厳格なカットと痩せ細ったシルエットといったいわゆるエディのコードは、早くも1997年にはその端緒が現れていたとされ、病的に細身の男性という全く新しいカノンが普及するきっかけとなった。
この細身の男性というトピックについては、また別の議論をする必要がありそうだが、筆者の目には、まだイタリアにおいてはこの男性像は多数派の支持を得ているようには見えない。
パリ(フランス)やロンドン(英国)など、ヨーロッパの他のファッションの都よりも、イタリアにおいては、依然としてマッチョな男性の方が持て囃されているような印象を受ける。
日本では、池田理代子先生や萩尾望都先生、そして矢沢あい先生の昭和・平成の少女漫画を見ても分かるように、中性的で線の細い男性という存在は、多くの女性の心を揺さぶってきた。
エディが1990年代後半に痩せ細った男性のシルエットを発表した当時、ヨーロッパにおいてどのような男性像が語られていたのか、この点についていつか掘り下げてみたいとも思っているのである。
参考:
その後、エディは、2012年から2016年までサンローランのアーティスティック・ディレクターを務め、2018年からは、セリーヌのデザイナーとして新たな物語を綴り始めた。
まだ展示の半分しか紹介していないが、1997年という年にいかに多くの「事件」が起こったか、展示を見ながらとてもワクワクしてしまった。
【後編】もお楽しみに!
1997 Fashion Big Bang
会場:ガリエラ宮(Palais Galliera)
住所:10 Av. Pierre 1er de Serbie, 75116 Paris, France
開催期間:2023年3月7日から2023年7月16日まで
公式ホームページ:plaisgalliera.paris.fr
チケット料金:15ユーロ(一般)、13ユーロ(割引)
参考:
・「1997 FASHION BIG BANG」『Spectacle Selection』(2023年6月14日付記事)
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