「ファッションの瞬間、コルセットからサロペットまで」(Momenti di Moda. Dal busto alla salopette):ミラノのパラッツォ・モランドにて開催、20世紀イタリアのファッションを辿る特別展
序. ミラノの小さな服飾美術館 パラッツォ・モランド(Palazzo Morando)
ミラノにおいて様々な高級ブランドのブティックが立ち並ぶモンテナポレオーネ(Montenapoleone)エリア。
ここには特に服飾品のコレクションが充実している小さな美術館パラッツォ・モランド・アッテンドロ・ボロニーニ( Palazzo Morando Attendolo Bolognini)がある。
16世紀末に建てられたこの建物には、数世紀にわたってミラノの貴族が住んでいた。
20世紀前半にこの建物に住んでいたリディア・カプラーラ・ディ・モンタルト伯爵夫人( Lydia Caprara di Montalto)が1945年に亡くなると、この邸宅は調度品とともにミラノ市に遺贈され、ミラノ美術館(Museo di Milano)として一般公開されることになった。
さらに2010年には、パラッツォ・モランドはミラノ市が収集した16世紀から21世紀にかけての服飾品のコレクションを収蔵する施設に指定された。
服飾品はその保存や修復が難しいため、一般公開するには綿密なメンテナンスが必須であるが、ミラノ市のこの豊かなコレクションをもとに毎回異なるテーマで研究や展示が行われているほか、イタリア国内外の美術館にもたびたびコレクションを貸し出している。
2023年2月現在、この美術館では「ファッションの瞬間、コルセットからサロペットまで」( Momenti di moda:Dal busto alla salopette/ Moments of fashion:From corsets to dungarees)と題した20世紀イタリアのファッションを振り返る特別展が開催されている。
本展は、1920年代のフラッパー、カジュアル化が進む女性、1930年代のエレガントな女性、第二次世界大戦期の苦難、戦後イタリアのファッションの復興、1970年代のイタリアのプレタポルテの誕生を辿る構成となっている。
「コルセットからサロペットへ」(Dal busto alla salopette)という副題にある通り、徐々に解放されていったとされる女性の身体。
本展は単純に、女性がコルセットから解放され、よりカジュアルな服装を選ぶことができるようになったというイタリアンファッションの歴史を振り返るものなのか、それとも新たな気づきを示唆するものなのであろうか。
次の章から本展の展示品を紹介していくこととしよう。
1. 1900-1914:コルセットからの解放
女性の身体を矯正し、衣服に合うようにそのシルエットを変えるための道具であったコルセット。
その一方で、近代のイギリスでは、女性の身体の動きを制限するというよりも、スポーティで健康的なライフスタイルが持て囃されるようになった。
この頃、女性の身体をコルセットから解放する動きは、1ヨーロッパ中に広まり始めており、画家グスタフ・クリムト(1862-1918)やラファエル前派の画家たちもその流れを作っていった。
ところがこのコルセットからの解放を歌う服は19世紀から存在していたものの、それらは一部の知識人や芸術家たちに受け入れられていただけであった。
ところが20世紀初頭に、クチュリエのポール・ポワレ(1879-1944)とマリアーノ・フォルチュニ(1871-1949)らが、コルセットを使わないドレスを発表したことで、これらのデザインは、洗練された流行として人々に受け入れられていき、ココシャネルといった後のデザイナーたちにも受け継がれていった。
参考:
これは刺繍とレースで飾られた上質な綿のコルセットであるが、中には鋼鉄や鯨の骨の支柱が入っており、身体の形を矯正するのである。
右端のスーツドレスは、18世紀の燕尾服をモチーフにしたものであり、多様なシーンに対応するモデルとして評判を得ていた。
またこちらの紫のドレスも、メンズウェアに着想を得ており、数本のゴムが入った軽いインナーコルセットのみで支えられている。
次の部屋に進んでいくと、各年代の雑誌やポスターを使ったパネルが展示されていた。
20世紀に入り、一部の特権階級の嗜みからごく普通の人々の楽しみへと変化していったファッション。
中でもファッションに対する女性のパッションは、いつの時代にも増して熱いものへとなっていった。
オーダーメイドのテーラリングがプレタポルテに徐々に取って代わられていくまでは、雑誌には最新の生地が掲載され、人々の目を楽しませていた。
2.アクセサリー(Accessories)
20世紀に入ってもアクセサリーは女性のファッションを彩る重要なアイテムであり続けたが、女性のライフスタイルの変化に順応していったものでもあった。
健康的に日焼けした肌の流行により、女性の身体と顔を覆っていた日傘や扇子は姿を消していった。
またスカートの丈が短くなったことにより、靴はコーディネートの主役へと躍り出ることとなった。
その一方で帽子は、1950年代まではステータスを示す装飾品としての役割を持っていたが、やがて単に日差しを避けるためのオブジェとなっていった。
3.第一次世界大戦(The First world war)と1920年代のフラッパー
第一次世界大戦(1914-18)でヨーロッパの政治的状況が大きく揺れ動いた頃、女性服もまた革新の時期を迎えていた。
戦争が始まると、煌びやかなパリ風の服飾店は一時的に閉鎖されたと同時に女性のスカートの丈は短くなっていった。
なぜならば若い女性たちは、負傷した兵士の看護や軍事工場で働くことを要求され、労働に適した動きやすい服装が賞賛されたからである。
赤十字のエプロンは女性のワードロープの一部となり、コルセットや下着の重ねて着ることは少なくなっていった。
1918年5月に刊行された雑誌『Margherita』は次のように書いている:
「こうして私たちは、街の歩道や並木みちを軽やかに歩く。幸せな時代における複雑な洗練を後悔することなどない。」
(第一次世界大戦のせいで生活は苦しい生活を強いられている人もいる。より自由になった衣服については後悔することはない、という意味;
Thus attired we walk swiftly and lightly along city pavements or in the shade of tree-lined avenues, without regretting the complicated sophistication of the happy years)
こちらの可憐な白いドレスは、赤十字や裁縫師の制服から着想を得たものである。
特にこのドレスは、着心地の良さと配給された生地を軍用にも取っておくことができたために1917年に流行した。
戦後の1920年代のアイコンとなったのは、少年風にカットされ、短いスカートの下から惜しげもなく足を覗かせる解放的でアンドロジナスな少女であった。
そんな彼女たちのために、運動やスポーツ、ダンスに適した洋服が次々と生み出された。
マドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)によって生み出されたバイアスカットによってより体にフィットした服が作られるようになり、スカートは、動くたびにその形を変える、より身体を自由に動かせるものへと変わっていった。
刺繍と光を反射するラインストーンで作られたダチョウの羽根は、この時代のイヴニングドレスの典型である。
またこちらのドレスは、有名な服飾史研究者ロジータ・レーヴィ・ピセツキー(Rosita Levi Pisetzky;1897-1985)より寄贈されたものである。
ピセツキーの執筆した研究書『モードのイタリア史』(邦訳 平凡社、1987年)はかなり重厚な内容であるが、イタリアの服飾の歴史を知る上での基本的文献である。
4.1930年代のエレガンスと第二次世界大戦(The Second world war)
1929年の世界恐慌は、狂騒の20年代の浮かれた雰囲気を一掃した。
多くの裕福な家庭が破綻し、またアメリカへの高級品を輸出する際に高い関税が課されるようになったことで、オートクチュールも変化を迫られていた。
1930年代の新しいキーワードは「エレガンス」、長いスカートに肩にパットを入れ、堂々と自身に満ちた優雅な女性が持て囃された。
その一方で、奇抜なデザインが生まれることもあったが、それは世界の政治情勢が不安定になった1910年代後半以降のことであり、現実逃避の現れでもあった。
また1920年代にはすでに絹の安価な代替品として使われていたレーヨンは、1930年代にファッションの分野で大きな成功を収めた。
特に中世より様々な繊維の一大生産拠点であったイタリアでは、ファシズムによる繊維部門の自給自足政策もあり、レーヨンが普及した。
こちらの花柄のドレスは、スキャパレリのモデルに着想を得たとされており、人魚の尾のように複雑に重なり合う裾が特徴的である。
1940年春のパリ・コレクションでは、ふんわりと短くしたスカートにパフスリーブのドレスが多く発表され、このスタイルが戦時中も流行することとなった。
世界情勢に暗雲が立ち込める中、多くのアメリカ人バイヤーは、1940年1月のに開催されたパリ・オートクチュールに参加したが、パリがナチスから解放された1944年8月までアメリカに戻ってくることはなかった。
第二次世界大戦の間、ヨーロッパ諸国では衣料の原料(革、羊毛、絹、縫い糸)に限らず、ありとあらゆる物資が不足し、人々の生活はさらに困窮を極めていった。
その一方で戦争特需で豊かになったごく少数派の人々もおり、配給制のもと許される限りの贅沢を尽くしたのであった。
こちらはジャージー素材で作られたマーメードドレスだが、体の線にしなやかに沿うデザインとなっている。
6.1950-1960 Milano
第二次世界大戦が終わり平和が訪れると、ミラノはファッションの街としての力を取り戻していった。
これまでファッションはパリから発信されていたが、イタリアの服飾職人たちは、パリの流行からインスピレーションを得て、想像力とセンスを洗練させていった。
1951年、ジョヴァン・バッティスタ・ジョルジーニ(Giovan Battista Giorgini)がフィレンツェで開催したイタリア初のファッションショーには、9つのハイブランドが参加したが、そのうち4つはミラノ発のもの(Marucelli, Noberasco, Vanna e Veneziani)であった。
イタリアンファッションが世界的に成功していった背景には、主要なアトリエが、コモ地区のシルクやピエモンテ地区のウールメーカーと提携することによって、オリジナルの高級シルクやウールを作り出したということがあった。
このカクテルドレスをデザインしたジョレ・ヴェネツィアーニは、1944年、ミラノにアトリエを開いた。
彼女は、1951年以降、フィレンツェで開催されたファッションショーに参加したほか、イタリアのファッションを国際市場に送り出すことを目的としたあらゆるイベントに参加した。
また美術館のコレクションとなっている衣服を展示する際には、様々な専門家の綿密な調査と準備を必要とする。
というのもまずは衣服の保存状態を確認した上で、展示可能な場合は、そのシルエットとスタイリングを制作当時のまま展示しなければいけないからである。
時にはその衣服が作られた当時のモデルとなった身体を再現するために、その衣服に合ったマネキンを作ることもあり、限りなく制作当時に近い状況を再現するのである。
7.1960-1980とマリー・クヮント
1960 年代、ファッションを牽引したのは、戦後を生きる若者たちであった。
ブティックは、若者向けに新しいデザイナーが手がけた服を大量生産し、デパートもその顧客の層を再考して商品を展開せねばならなかった。
19世紀に作業着として誕生したダンガリー、いわゆるデニムは、1970年代の若者ファッションの必需品となった。
1967年、エリオ・フィオルッチ(Elio Fiorucci;1935-2015)はミラノに店を開き、Tシャツ、迷彩柄のスーツ、靴、ジーンズ、プラスチック製のアクセサリー、世界各地の製品を販売した。
また1980年12月5日、ミラノのポルディ・ポッツォーリ美術館(Poldi Pozzoli)は特別展「1922年1943年:イタリアンモードの20年、ミラノの服飾美術館のための提案」(1922-1943: Vent'anni di moda italiana. Proposta per un museo della moda a Milano)を開催した。
さらに1981年3月27日、特別展が終わる際にミラノにて服飾美術館のための国際シンポジウムが開催された。
当時、このプロジェクトのキュレーションに関わっていたミラノ市は、ポルディ・ペッツォーリに展示されていた衣服やアクセサリーの大部分を寄付として受け取る、あるいは購入することで、ミラノ市のファッションのコレクションを増やし始めたのである。
イギリスのファッションデザイナー、マリー・クヮントは、自身の歴史的な作品をミラノ市に寄贈した最初の人物であった。
マリー・クヮントは、スウィンギング・ロンドン(Swinging London;ミニスカートやビートルズなど、ファッションや音楽、映画の分野でロンドンを中心に花開いた若者文化)を牽引するファッション・デザイナーだった。
1963年、国際的なティーンエイジャーー向けのファッション市場に向けて、ブランド、ジンジャー・グループ(Ginger Group)を新たに立ち上げた。
彼女が発表したリブ編みのジャンパーに新発明のタイツを合わせたスクールガールスタイルは、ミニスカート、光沢のあるポリ塩化ビニール素材の靴、鮮やかな色の合成繊維ジャージのミニドレスなどといった一連の作品の始まりに過ぎなかった。
先にも触れた通り、パラッツォ・モランドの展示品は、数十年前から100年以上前のものが多い。
劣化しやすい衣服は展示どころか、保存や修復も難しい文化遺産である。
そのため本展の展示品はガラスケースに入っており、会場の照明も暗めであった。
これは、展示品のほとんどが豊かなアーカイヴから作られ、衣装はガラスケースに入れられることなく豪華な設営がなされていた、パリのディオールの展示とは異なる点であったといえるであろう。
その扱いが難しい衣服とはいえ、ただ美術館がコレクションとして保存しておくだけではその価値は公には伝わらないであろう。
壊れやすいアーカイヴをいかに正しく扱い、研究し、その意義について議論していくことが重要であろう。
MOMENTI DI MODA. DAL BUSTO ALLA SALOPETTE
会場:Palazzo Morando | Costume Moda Immagine
住所:via Sant’Andrea, 6, primo piano, Sale espositive dell’Ala Nuova
会期:2022年9月17日から(終了時期未定)
※入場無料
開館時間:10:00-17:30(月曜休館)
公式サイト: www.costumemodaimmagine.mi.it
・「MOMENTI DI MODA A PALAZZO MORANDO. DAL BUSTO ALLA SALOPETTE」『Fashion Beginners』(2022年10月31日付記事)
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