「マリアノ・フォルチュニ: 織りなすデザイン展」:三菱一号館美術館、100年の時を超えたドレス
現在、東京・丸の内の三菱一号館美術館にて、2019年7月6日から10月6日までの会期で「マリアノ・フォルチュニ: 織りなすデザイン展」が開催中である。
三菱一号館は、1894年に竣工した丸の内で最初のオフィスビル。
設計を担当したのは、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル。
その後、ヴィクトリア時代のクイーンアンスタイルの煉瓦造の三菱一号館にならって、丸の内では次々と煉瓦造のオフィスビルが建設された。
戦後の高度経済成長期に、これらの煉瓦建築は、近代的なオフィスビルに建て替えられ、三菱一号館も、1968年に解体。
2009年、建設当時と同じ場所に、三菱一号館が再現されることになり、三菱一号館美術館が開館した。
本展で取り上げられるマリアノ・フォルチュニ(Mariano Fortuny; 1871-1949)は、グラナダ生まれ、ローマ・パリ育ち、ヴェネツィアで活躍した芸術家・デザイナー。
序章と終章を合わせ、全7章で構成、ヴェネツィアのフォルチュニ美術館の協力のもと開かれた本展。
フォルチュニの絵画、版画、写真、舞台関連作品、デザイン資料などなど、これらの展示作品は、日本初公開のものばかりとのこと。
ここでは、会場の撮影可能エリアで撮った写真と、SNSで使用可能な公式フォトギャラリーの写真をもとに、本展を紹介していきたい。
序. マリアノ・フォルチュニ ヴェネツィアの魔術師
マリアノ・フォルチュニは、1871年、スペインのグラナダにて、カタロニア人の人気画家である父マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサル(1838-74)と、名門芸術家一族出身の母セシリア・デ・マドラソ(1846-1932)の間に生まれた。
ところが、フォルチュニが3歳の時、父が36歳の若さで没し、一家は、当時住んでいたローマからパリに移る。
パリでは、親戚や芸術家のもとで、絵画を学んだフォルチュニであったが、当時パリで流行していた印象派にはあまり関心を持つことなく、屋敷に残る父の絵を模写し続けた。
『《マリポーサ(蝶)》、父マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサル作品の模写』(La Mariposa. Copy after the Father, Mariano Fortuny y Marsai; 1890)。
『花の習作、父マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサル作品の模写』(Study of Flowers. Copy after the Father, Mariano Fortuny y Marsai; 1889)。
『グラナダ、アルハンブラ宮殿の中庭』(制作年代不詳)(Courtyard in the Alhambra, Granada; n. d.)
また、舞台芸術にも興味を持ったフォルチュニであったが、馬の毛がもとで喘息に苦しむようになる。
馬がいない都市へ、ということで、1888年、一家は、パリからヴェネツィアに移り住んだ。
イタリア半島は、16世紀のイタリア戦争での決定的な敗北や18世紀末のナポレオン支配の時期を経て、政治的な力を失っていた一方で、ヴェネツィアは、観光地や文化の中心地としてかろうじて命脈を保った都市の一つであった。
1860年代後半には独立したイタリア王国に合流したヴェネツィアは、文化や芸術の力で、再び都市を盛り返そうとした。
青年期のフォルチュニが移り住んだ頃のヴェネツィアは、そのような都市の努力もあって、文化都市として世界から注目が集まり始めていた時期でもあった。
一家は、ヴェネツィアにて、サン・マルコ地区のサン・ベネト広場に面する伝統的ヴェネツィア商館(フォンダコ)建築のペーザロ・オルフェイ邸(現フォルチュニ美術館)を住居兼工房とした。
フォルチュニは、この工房で、繊細なプリーツが特徴的なドレス「デルフォス」など、様々な作品を生み出すことになったのである。
『自画像』(制作年代不詳)(Self-Portrait; n. d.)。
参考:高橋明也「伝統と革新ーヴェネツィアからのメッセージ」『All About Mariano Fortuny』毎日新聞社、2019年(本展図録)、19-22頁。
1. 絵画からの出発
フォルチュニが3歳の時に亡くなった父マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサル(以下、父フォルトゥニと略記)は、芸術家として、息子に大きな影響を与えた。
19世紀のスペインを代表する画家であった父フォルトゥニは、マドリードとローマを行き来しながら活動し、またヨーロッパ各地を旅する芸術家でもあった。
幼くして父と別れることになった息子フォルチュニであったが、父の感性を引き継ぎ、伝統的な芸術家やガラス器・陶磁器・彫刻などの工芸についての造詣を深めた。
フォルチュニが過去の偉大な師として、模写を行うのに選んだのは、ベラスケス、ゴヤ、エル・グレコ、またティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼなどのヴェネツィア派の作品であった。
『ヤコポ・ティントレット《聖マルコの奇跡》の模写』(The Miracle of Saint Mark. Copy after Jacopo Tintoretto; 1890)。
右上『貝殻の中の海のニンフ』(Sea Nymph in a Shell; 1912)、右下『仏陀伝の一場面』(Scene of Buddha's Life; 1928)、左『エジプト、ナイル川からみた村と山々』(Egypt. Village and Mountains from the Nile; 1938)。
右上『横たわる裸婦』(Lying Nude; c. 1915)、右下『後ろ姿の裸婦』(Nude from the Back; c. 1910)、左『後ろ向きに横たわる裸婦』(Lying Nude from the Back; c. 1915)、『ポーズするモデル』(Model Posing; c. 1915)。
2. 総合芸術、オペラ ワーグナーへの心酔
パリ時代に、ワーグナーのオペラに出会ったフォルチュニは、絵画から舞台美術と照明技術に興味を持つようになった。
『リヒャルト・ワーグナーのオペラ『パルジファル』』(Kundry from RIchard Wagner's Opera Parsifal; n. d.)(展示会公式ポストカードより、1896年第七回ミュンヘン国際美術展金賞受賞作品)。
フォルチュニは、20世紀初頭に、光についての研究を進め、円形パノラマ「クーポラ」に、拡散光と間接照明を用いた革新的な舞台装置を生み出した。
様々な色彩や光を舞台の上に再現することを可能にしたこの装置は、「システマ・フォルチュニ」と呼ばれ、ヨーロッパの劇場で採用されることになった。
『写真アルバム「テスピスの車」』(Photo Album 'il carro di Tespi'; 1929)。
『パリのべアルン伯爵夫人私設劇場の柿落としのためのバレエ』(Ballet for the Inauguration of the Comtesse de Béarn's Private Theater in Paris; 1906)。
3. 最新の染織と服飾 輝く絹地と異国の文様
絵画から舞台美術の分野へとその才能を開花させたフォルチュニは、さらに、舞台衣装を手がけたことをきっかけに、染織の世界にも踏み込んでいく。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、古代遺跡ブームであったヨーロッパ。
1896年、ギリシャのデルフィ遺跡から紀元前5世紀初頭の青銅彫刻《デルフォイの御者》が出土、また、1900年には、サー・アーサー・エヴァンズがクレタ島にてクノッソス宮殿遺跡を発見。
これらの遺物・遺跡は、フォルチュニの作品にインスピレーションを与えることになった。
その中でも、最高傑作といえるのが、フォルチュニの妻アンリエットの発想から作られた繊細なプリーツが特徴的なドレス「デルフォス」(1907)である。
『デルフォス(黒)』(Delphos; 1910s)。
このドレスは、中国や日本から輸入された絹のサテンやタフタの生地を、黒、赤、紫、緑などに染め、手作業でプリーツをつけた上で筒状に裁縫、ヴェネツィアのムラーノ島で作られたガラス玉で飾りを付けただけというごくシンプルなものである。
1906年、クチュリエのポール・ポワレ(1879-1944)が、コルセットを使わない古代ギリシア風のハイウエストドレスを発表したように、フォルチュニのデルフォスもコルセットを必要のないものであった。
女性たちの身体をコルセットから解放する動きは、ヨーロッパ中に広まり始めており、画家グスタフ・クリムト(1862-1918)やラファエル前派の画家たちもその流れを作っていった。
もともと「コルセットからの解放」を歌う服は、19世紀から存在していたものの、それらは一部の知識人や芸術家たちに受け入れられていただけであった。
ところが、ポール・ポワレがパリにて、さらにフォルチュニがヴェネツィアにてコルセットのいらないドレスを発表したことで、これらのデザインは、洗練された流行の最先端として人々に受け入れられていくことになり、ココシャネルといった後のデザイナーたちにも受け継がれていった。
なお、この展示室の一角に撮影可能エリアがあり、これらのドレスを写真に収めることができるようになっている。
中央『ジャケット』(Jacket; 1910-20s)。
フォルチュニの官能的で繊細なドレスは、マルセル・プルースト(1871-1922)の小説『失われた時を求めて』にも登場している。
『デルフォス(紫)』(Delphos; 1920s)と『オペラジャケット』(Opera Jacket; 1920s)。
フォルチュニは、父の影響もあって、様々な染織品や民族服や骨董品などをコレクションしており、そのような異国趣味は、このキモノジャケットにも現れているといえよう。
『デルフォス(セイジグリーン)』(Delphos; c. 1920)と『「キモノ」ジャケット』(Kimono Jacket; c. 1925)。
また、フォルチュニは、華麗な織りや刺繍によって作られていた模様・文様を、プリントによって表現することを得意としていた。
『フード付きケープ』(Cape with Hood; 1930s)。
プリントという技術により、使用される糸や布地の量は少なくなるため、フォルチュニの生み出したドレスは、軽やかな着心地を実現した。
『ケープ(未完成)』(Unfinished Cape; c. 1930)。
西欧中世やルネサンスの伝統的な文様や中東や極東のエキゾチックな文様をもとにデザインされたテキスタイルは見事である。
これらのプリントによる文様は、織りや刺繍による文様に比べて、その重さだけではなく、製作コストと時間をカットすることを可能にした。
『ドレス』(Dress; 1910-20s)。
『テキスタイル』(Fabric; after 1909)。
『テキスタイル』(Fabric; c. 1930)。
『マリアノ・フォルチュニのデザインによる吊りランプ「シェラサード」』(Chandeler Sherazade, Designed by Mariano Fortuny (museum copy); 2019年、展示用に複製されたもの)。
フォルチュニは、デルフォスで成功をおさめてからも、製作は一貫してヴェネツィアで行った。
フォルチュニのドレスは、ロンドンで、パリで、ニューヨークで、世の人々をたちまち魅了していくこととなった。
また、芸術家フォルチュニにとって、妻アンリエット(1877-1965)は、常に良き理解者であり、ミューズでもあった。
『アンリエット・フォルチュニ、画家の妻』(Portrait of Henriette Fortuny, Wife of the Artist; 1915)。
2人の出会いは、1900年代初頭のパリの芸術サークル。
赤褐色の髪に、均整のとれたほっそりとした体つきが美しいアンリエットに夢中になったフォルチュニは、ヴェネツィアの母と姉に彼女を紹介したものの、家族は大反対した。
おそらく、アンリエットの出自が原因であると思われるが、2人がようやく結婚したのは、1924年になってからであった。
家族の反対もよそに、フォルチュニとアンリエットは、ヴェネツィアの邸宅兼工房にて精力的に製作を行った。
『バラ色の衣装のための習作(アンリエット・フォルチュニ)』(Study for the Pink Dress (Portrait of Henriette Fortuny; 1932)。
アンリエットは、フォルチュニのミューズであるだけではなく、工房においても経営手腕をふるい、経営者としての才能の片鱗も見せていた。
その間、フォルチュニは、愛するアンリエットの写真や絵画を何百枚も残し、そのうちの2枚がこれらの絵画である。
半世紀近く、公私を共にした2人。
その生活は、1949年のフォルチュニの死によって終りを告げる。
フォルチュニの死後、アンリエットは、邸宅の工房を閉め、2人の傑作であるデルフォスの生産終了を発表した。
愛する夫の仕事を後世の人々に伝えようとしたアンリエットは、その工房・邸宅を、ヴェネツィア市に寄付した。
アンリエットのおかげで、フォルチュニ美術館となった工房・邸宅は、フォルチュニの功績を今に伝えているのである。
参考:
ダニエラ・フェレッティ著、新保淳乃訳「総合芸術家マリアノ・フォルチュニの創造の源泉:アンリエット・ニグラン」『All About Mariano Fortuny』毎日新聞社、2019年(本展図録)、23-26頁。
阿左美淑子「総合芸術家マリアノ・フォルチュニ」『All About Mariano Fortuny』毎日新聞社、2019年(本展図録)、27-32頁。
朝倉三枝「20世紀初頭のファッションにおけるマリアノ・フォルチュニの革新性」『All About Mariano Fortuny』毎日新聞社、2019年(本展図録)、220-226頁。
4. 写真の探求
絵画、舞台美術、染織と様々な分野で活躍したフォルチュニは、写真家でもあった。
妻アンリエットとの赴いたスペイン、モロッコ、ギリシア、エジプトなどの旅の写真や、セルフポートレート、また拠点としていたヴェネツィアの写真など、これらの写真は、フォルチュニ自身によってファイリングされて保存された。
カメラは、フォルチュニという芸術家の眼となり、彼が見た20世紀の世界を捉えたのであった。
5. 異国、そして日本への関心と染織作品への応用
名門の出身で裕福であったフォルチュニの両親は、ヨーロッパ、アフリカ、中東、極東など、様々な地域・時代の品を収集していた。
また、母セシリアは、日本の着物を所有していた(今回の展示にあり)。
フォルチュニと妻アンリエットの仲を反対していた母セシリアが亡くなってから、この日本の着物は、アンリエットに送られたというエピソードもある(着物を着るアンリエットの写真も今回展示されている)。
このように両親の影響を大いに受けたフォルチュニの作品には、クラシックながらもどことなくエキゾチックな雰囲気が漂っていると言える。
また、日本の文化・芸術に興味を抱いていたフォルチュニは、日本の型染め(木型・紙型を用いて染料や糊・蝋などの防染剤を布・紙に刷り込んで染める技法。プリント布地・更紗・紅型・友禅染にはこの技法が使われている。)の知識があり、自身の作品にその技法を活かしたと考えられている。
終. 世紀を超えるデザイン
多彩な才能を見せたフォルチュニが1949年に亡くなった時、彼とアンリエットの作品であるドレス・デルフォスも生産を終了した。
その他の事業については、エルシー・マクニールが引き継ぎ、またヴェネツィアのジュデッカ島の工場では、当時と同じ工法で綿プリントの生産が続けられている。
フォルチュニによるデルフォスそのものは彼の死によって途絶えたものの、このドレスは、今もなお、ファッションの世界において影響を与え続けている。
例えば、2016年春夏のシーズンにおいて、ヴァレンティノは、デルフォスをモチーフにしたオートクチュールコレクションを発表した(参考:Fashion Pressに掲載されている全ルック)。
また、1910年代から20年代にかけてのイギリス貴族を描いた人気ドラマ『ダウントン・アビー』のファイナルシーズンにおいては、主要登場人物のメアリが、赤のデルフォスを着こなしている。
文字通り、フォルチュニとアンリエットの傑作デルフォスは、100年の時を超えた。
デルフォスの成功の要因として、次の2つの点があげられるであろう。
一つ目に、ヴェネツィアの工房で、技術と質にこだわり生産を続けたこと。
二つ目に、コルセットからの解放という時流に乗り、ロンドン、パリ、ニューヨークと国際的なファッションの拠点に進出したこと。
フォルチュニのドレスは、単なる流行に終わることなく、その確かな技術とデザインによって、後世のアーティストに繰り返し使われ、「再生」し続けることになったのである。
おまけ:美術館併設カフェレストラン Café 1894
三菱一号館美術館に来館したら是非立ち寄りたいスポット、それは、併設するカフェレストランのCafé 1894である。
三菱一号館が竣工した1894年を名前としたこのカフェは、かつて銀行営業室であった場を利用して設計されている。
天井は高く、シックで重厚感のある木の机とテーブルが特徴的である。
オリジナルメニューの他、美術館の特別展とタイアップしたメニューも提供されている。
ハーブティー付きのガーデンプレートランチや、
1894の文字入りのクレープなど、
ランチ、ティータイム、ディナーまで各種メニューが揃っている。
料理を楽しみつつ、優雅に過ごすことができる場としておすすめである。
営業時間:11:00-23:00(不定休)
《マリアノ・フォルチュニ: 織りなすデザイン展》
住所:三菱一号館美術館、〒100-0005 東京都千代田区丸の内2丁目6−2
展示期間・開館時間:2019年7月6日-10月6日/ 10:00-18:00
※月曜休館。
入場料:1700円(一般)、1000円(大学生・高校生)、500円(小・中学生)
公式ホームページ:mimt.jp/fortuny/
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