見出し画像

【考察】ファッショニング・マスキュリニティーズ(Fashioning Masculinities: The art of Menswear)展 :ファッションはブルジョワの趣味ではない?

1. ファッショニング・マスキュリニティーズ(Fashioning Masculinities: The art of Menswear)展が想定する「男らしさ」とは?

これまで3回にわたり、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(以下、V&Aと略記)で開催された特別展をファッショニング・マスキュリニティーズ(Fashioning Masculinities: The art of Menswear)紹介してきた。


そこでは、身体から見る「男らしさ」(Undressed/ power)、上流階級のファッションから見る「男らしさ」の変遷(Overdressed/ artistry)、現代のファッションから見る「男らしさ」(Redressed/ diversity)という三つのテーマを軸に、衣服や絵画、装飾品など、膨大な量の作品が展示されていた。

より噛み砕いて話すならば、第一部「Undressed」では、そもそも男性の身体というのは歴史的にどのようにして受け入れられてきたのか、あるいは再考されてきたのかという疑問を投げかける構成となっている。

次の第二部「Overdressed」では煌びやかな近世ヨーロッパの貴族男性の装いがいかにして黒いスーツ姿へと変わっていったのか、またいかにそれらの男性の着こなしに現代のクリエーターたちが影響を受けたのかが語られていた。


(右 Jean-Paul Gaultier, Jacket, Spring/Summer 1996, France (designed), Italy (made), Cotton/ 左 Samuel Ross for A-Cold-Wall, Form gilet, Spring/Summer 2021, Italy, Cotton, polyamide, polyester)



さらに最後に第三部「Redressed」では、第一部と第二部で表現した「男らしさ」から一歩先に進み、身体の性に囚われないより多様で自由な男性らしさのあり方を提示するという構成となっていた。

ところが正直に書いてしまうならば、本展が描くストーリーがあまりにも楽観的で綺麗にまとめ過ぎているのではないかという感想がまず浮き上がってきたのである。

さらに言うならば、その「男らしさ」とはとても限定的な話で、金持ちの、しかも白人男性の「男らしさ」に視点が偏り過ぎているのではないかという違和感を抱いたのである。


( Doublet, About 1630-35, Italy and UK, Silk taffeta, silver, V&A/ Collar, About 1630, UK, Needle lace, V&A)

誤解を与えないように断っておく必要があるが、本展ではもちろん、それ以外の男性をモチーフにした作品も展示されており、特に第三部の「Redressed」では人種の違いを意識させない作品のラインナップになっていた。
またそれどころか、男装をした女性の写真も展示されており、男性らしさの持つ多様性という一面を強調している印象を受けた。

いささか意地悪な見方をするならば、最後に多様性を持ってくるという構成でさえも明るい未来を暗示するような、なんとなくハッピー過ぎる展開というか…

「男らしさ」というレッテルに悩む人やその多様性の恩恵(?)を受けることができず苦悩する人たちに迫る展示作品やブースがあってもよかったのではなかったのかとも思っている自分がここにいる。

特に第二部はヨーロッパの貴族男性と現代のハイブランドのデザイナーの作品というように、完全にヨーロッパの金持ちの男性を対象に振り切っていた。

ロンドンのV&Aにおいて「男らしさ」という壮大なテーマを扱うためには、ストーリはよりコンパクトにわかりやすく、それに従って展示作品を選んでいったのだと思われるが、もしこの「男らしさ」の特別展が今後別の場所で行われるならば何の要素を足し、省くべきなのか?

さらに大きな視点で言うならば、ファッションとは一部の限定された人々が楽しむものに過ぎないと受け取られないためにはどのような問題意識が必要なのか

次の章で掘り下げていくこととしよう。




2. ファッションはブルジョワの趣味ではない?

唐突な話に聞こえるかもしれないが、「ファッションが好き」と言うと「お金持ちだね」「ブルジョワだね」という感想を伝えてくる人が過去にいた。

ところが世の中の「ファッションが好き」という人々は一枚岩では語られないものだと感じている。

コレクションブランドを毎シーズンチェックし、国内のブランドならば展示会に足を運び新作を注文し、それを身につけて自分のスタイルを発信する人。

親族から受け継がれた貴重なヴィンテージを日常的に使い、また自分自身も上質で長く使えるものに拘って買い物する人。

ユニクロなどファストファッションであっても、自分の気になるアイテムを取り入れ、工夫を凝らし毎日のコーディネートを楽しむ人。

これらの人々が洋服や靴、カバンに使うお金や買い物の頻度、それを買い求めるお店も全て異なると思うのだが、彼らは皆、「ファッションが好き」という人にカテゴライズされるであろう。

筆者に限って言えば、ハイブランドのお店で買い物することは、よっぽど気に入ったものがあった時であり、その頻度もかなり少ないが、コレクションブランドのショーを見るのはとても好きである。

インターネットやSNSが発達した今、ショーのインビテーションを持っていなくても通信環境さえ整っていれば、リアルタイムでショーの映像は見ることは可能だし、紙媒体の雑誌を買わずとも、ファッション誌の批評もネットの記事で読むことができる。

つまりネット上の情報に限って言うならば、今は20年前に比べて、格段にお金と時間を使うことなく、各々がファッションについての知識を取り入れることができるようになっているのではないかと思う。

話を元に戻すと、別にコレクションブランドを常に買い求めているわけでもなく、ファッションの知識を得るために大金を使っているわけでもないのに、ファッションが好き=ブルジョワと言うイメージを抱かれがちになるのはなぜであろうか。

これはV&Aの今回の展示ファッショニング・マスキュリニティーズ(Fashioning Masculinities: The art of Menswear)に対して、筆者でさえも感じた批判に通じるものでもある。

なんというか、乱暴な言い方をするならば、本展の展示は私たちの生活や社会に重なってくるものが今ひとつないように感じてしまったのである。

もちろん伝統的な「男らしさ」を相対化して見ることにより、「男らしさ」の多様性やこれからの在り方を考えようという本展のメッセージの一つはひしひしと感じる。

ところが男らしくある、さらに言うならば美しくあるためには、結局、それにお金を使うことができる人しかそれを実行できないのではないかと感じてしまうような展示もあったのである。

一つ例を挙げるならば、英国人歌手ハリー・スタイルズ(Harry Styles;1994-)とアメリカの俳優・監督のビリー・ポーター(Billy Porter;1969-)のドレスの対比であろう。

『Vogue』の撮影に際し、グッチのドレスを着たハリー・スタイルズに対し、自身がゲイであることをオープンにしている黒人のビリー・ポーターは「なぜ白人のストレートの男がわざわざドレスを着る必要があるのか?」と疑問を呈したのであった(断っておくが現時点でハリー・スタイルズは自身のセクシュアリティを明かしていないが、過去に女性との交際が報じられたことがある)。


(左 Alessandro Michele for Gucci, Jacket and Dress worn by Harry Styles, 2020/ 右 Christian Siriano, Dress worn by Billy Porter, styled by Sam Ratelle, 2019, USA, Velvet, silk, cotton, Courtesy Christian Siriano)

ビリー・ポーターにとって、身体的に男性でありながらも女性のドレスを公の場で着るというのは、性的マイノリティとしての自分のアイデンティティを堂々と主張する手段であると同時に、社会や政治に自身の存在を知らしめる勇気ある行為であったのである。

このような覚悟を持ってレッドカーペットでドレスを着たビリー・ポーターにとって、白人男性が『Vogue』という大手ファッション雑誌の撮影でドレスを着たという行為は、それなりの意味を持っていなければ許されないことであったのである。

ところがそのビリー・ポーターでさえ、ある意味、レッドカーペットで豪奢なドレスを着ることができるごく一部の人間であるという事実は否定することはできないであろう。

このように自分の身体的な性とは真逆の服を着る時、自分の身体を補正するために、必要以上の時間と費用、労力がかかるものである。

このようなパフォーマンスや主張を外に向けてすることができる人というのは、社会の中でも選ばれた人なのではないであろうか。

また本展で展示されている服も特に後半はレッドカーペットやランウェイ上で着用されたものであるために、そこで語られるジェンダーや多様性がどうしても綺麗過ぎるもの・現実味のないものに見えてしまうのである。

それでは多様性を踏まえた「男らしさ」を語る上で必要な視点は何であろうか。


3. ファッションと社会の対話

さて、ここまでに投げかけてきた疑問点、「ファッションとは一部の限定された人々が楽しむものに過ぎないと受け取られないためにはどのような問題意識が必要なのか」/ 「多様性を踏まえた「男らしさ」を語る上で必要な視点は何であろうか」を最後に回収していくこととしよう。

天下のV&Aでの展示にケチをつけるのも生意気な話だが、ファッショニング・マスキュリニティーズ(Fashioning Masculinities: The art of Menswear)展はどこか浮世離れしており(そうでないと博物館の展示として成り立たないのだと思うが)、ファッションはやはりブルジョワの趣味であるという印象を受けてしまう。

言い換えるならば、本展の問題提起と現実の社会に生きる人々が抱える「男らしさ」をめぐる問題とがあまりリンクしていないのではないであろうか。

着ることは大抵の人が毎日行っている行為にも関わらず、に対する価値観やその好き嫌いは、人によってかなり異なる。

着ること・ファッションは人々の生活に欠かせないものでありながらも、共通の言語を持って話される機会やその方法があまりにも少ないのではないであろうか。

また特に日本においては、ファッションと社会および経済との結びつきは、なかなか見えにくいのではないであろうか。


筆者がこう思うようになったのは、ファッションと経済の関係がダイレクトに伝わる環境であるイタリア・ミラノに住んでいるからというのも言えるかもしれない。

例えばミラノのマルペンサ空港あるいはリナーテ空港に到着した途端、アルマーニやドルガバ、ゼニア、ヴェルサーチェ、プラダなどなど、イタリアの大手ブランド会社の広告が次々と目に入ってくる。

街や駅の中でも状況は同じであることから(もちろん食品など他のジャンルの広告もあるが)、このように街の主要な場所に広告を打つことができる=イタリアではファッションというのは社会を支える基幹産業であると考えることができるであろう。

見渡す限りファッションの広告だらけという状況は、日本では東京の青山や銀座などごく一部のエリアでしか見られない気がする。

参考:


話をもとに戻すと、日本に限っていうならば、社会や経済とファッションの結びつきは他の国に比べて弱い上に、ファッションに対する人々の意識も実に様々という現状が浮かび上がってくる。

「Fashioning Masculinities: The art of Menswear」展を観るためにV&Aに足を運ぶ人は、そもそもファッションに対する意識も普段から高いのではないかという意見はひとまず傍において、「男らしさ」のたどってきた歴史やそれが孕む問題、これから解決すべき課題を、なるべく現実的に、より大勢の人を議論しつつ模索していく必要がある。

つまりそれは、「男らしさ」の社会的規範や、特定の社会が定めるファッションのルールに苦しむ人々の声をなるべく広く拾い、解決策を話し合うということである。

例えば、ビリー・ポーターみたいに身体は男性だけど、女性の洋服を着たい人がいるとする。

ところが自分の身体的性とは異なる服装をするには、お金も時間も体力も要る。

そのためにどのようにその着たい洋服を着たらよいのか、どこにどのようにして着ていけばよいのか、それをなぜ着たいと思ったのかなどを話し合えるサポーターやコミュニティがあるだけで、またそのような人々にネットを介してでもアクセスできる方法があるだけで、その人にとっては一歩を踏み出しやすくなるであろう。

(『POSE/ポーズ』のトレーラーより。本作は1980年代のニューヨークにおけるアフリカ系とラテン系のLGBTQ +コミュニティを取り上げたドラマ。全3シーズン、2018年から2021年まで放送。ここではまだ「女装」のやり方を知らない若者が仲間の助けを借りて自然に装うことができるようになる場面も登場する。ちなみにビリー・ポーターもボール・カルチャーを仕切る重要人物として出演している)

「男らしさ」に限らず、「女らしさ」を過度に強制する特定の社会のルールも度々問題になっている。

わかりやすい例をいくつか挙げるとするならば、就職活動をする女子大学生は、歩きにくいパンプスにあまり暖かくないストッキングを合わせなければいけない、社会人の女性は職場にもよるが化粧をしなければいけないなどなど。

もちろんマナーとして身だしなみを整えることは重要であるが、その行為が何らかの身体的な苦痛を生むならば、別の方法を考えねばならないであろう。

例えば冷え性で足がすぐに痛くなりやすい女子大学生に対しては、暖かいタイツや歩きやすいスニーカーが必要だろうし、敏感肌で肌がすぐにかぶれてしまう人に長時間ファンデーションを塗れというのは酷な話であろう。

最も化粧品に関しては、UV防止や美白効果、空気中のチリやほこりから肌を守るなど機能が優れているものも多く、何もしていないよりも塗った方が肌にいい場合も多々あるし、最近では化粧をしたい男性向けのメンズコスメも少しずつ展開されている。

話が長くなったが、「男らしさ」「女らしさ」に関わらず、ファッションの中の社会的規範がそれぞれの人々の身体を苦しめるならば、すぐに手を挙げることができる環境であらねばならないし、オルタナティヴな解決策を話し合える仲間がいなければいけない。


「ファッションはブルジョワの趣味ではない?」という先に立てた問いに答えるためには、それこそ、ファッションをめぐる問題を一つ一つ拾っていき、ファッションと社会は無関係ではないことを主張していかなければならないのであろうか。

だからと言ってV&Aの煌びやかな展示の価値が損なわれるわけではないが、ファッションというトピックでより幅広い層の人々が対話できる環境があるということが重要である。


またファッションは視覚的にも大きな影響を与えるものであり、よいイメージも悪いイメージも思わぬところで、予想もつかないスピードで拡散されていく可能性もある。

そのためにファッションについて語る時には、自分が想定するよりオーディエンスの層は広く、時には望まぬ議論を巻き起こす可能性もあるものということを念頭において人々に伝わるように語りかける努力も必要であろう。

参考:

・蘆田裕史『言葉と衣服』アダチプレス、2021年。

「【記者の目】広がるメンズコスメ市場 SNSで美容意識向上、ライフスタイル提案に導入も」『繊研新聞社』(2022年2月14日付記事)

「女子高生が「スラックス制服」を選ぶ実用的な理由、彼女たちの本音とは」『Diamond Online』(2022年9月1日付記事)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?