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〈愛着障害/社交不安障害当事者の、僕のライフヒストリー(その1)〉

こんにちは(=゚ω゚)ノ

愛着障害、社交不安障害当事者で、2度の転職と3度目の休職をしている謳歌(おうか)と申します。

今日は、僕のライフストーリーについて書いていきます。

回避性の愛着障害がある僕にとって、非常に覚悟が要ることですが、やっていこうと思います(=゚ω゚)ノ

〈自己分析を避けてきました〉

僕は今まで、自分の自己分析ができませんでした。

なぜなら過去を思い返すと、
当時の自分の悲しみや、今の自分の怒り・憎しみ等の負の感情が体内から湧き上がってきて、
相当な嫌な人間になるからです。笑

だから今まで、なるべく自分のことを思い返さず、他者にも開示せずに、過去のことなんてさも何も気にしていないかのように振舞って、生きてきました。

でも実際の自分は過去をすごーく、気にしています。

でもそれを隠し続けました。

理由は2つあります。

1つは、過去の生々しい感情と対峙するのが怖いこと。
もう1つは、情けなく醜い自分を見るのが嫌なことです。

しょうもないプライドというやつが、出てきます。笑
(これが自己愛というものなのでしょうか…🤔)

でも、過去を隠したり、乗り越えたフリをするのは、もう疲れました。笑

潔く諦めることにします。

初めてなので上手く書けないと思いますがバーッと書いてみます。
たぶん長くなってしまいます。笑

つまらない自分語りですが、もし読んでいただけたら、本当にうれしいです。
また、同じような経験をされた方がいたらぜひ、コメントください!
本当に、なんでも良いので!笑

他の記事もそうですが、共感してくれる仲間がいることを祈りながら書いております(=゚ω゚)ノ


〈幼少期の自分〉


僕は、自営業の父と専業主婦の母の長男として出生しました。

長男といっても上に2人姉がいて、3人姉弟の末っ子長男です。

2人の姉がいて一番下の子、ということもあり、可愛がられていた記憶があります。

父も母も安定していて、その頃の記憶は幸せな記憶です。

ちょうど3歳ころ、両親が離婚します。

離婚前は父と母の大喧嘩の毎日。

母が怒りながら「どうして分かってくれないの!!」と叫んでいたことを覚えています。

喧嘩は大抵、1階のリビングで始まります。

喧嘩が始まると僕は階段に行き、1階と2階のちょうど真ん中あたりの段で一人で泣いていました。

両親のことは好きだったので喧嘩は聞きたくなかったけれど、なぜ喧嘩しているのかも当時の自分にはよくわからなかったので、声が聞こえる位置にいたんだと思います。


〈朝起きたら知らないボロ家にいた〉

その時は突然でした。

記憶が定かではないのですが、夜に母に手を引っ張られ、車に乗せようとしてきました。

父が母の手を振りほどいて「可哀想だろ!」と言いました。

母はそれでも僕を引っ張っていき、車に乗せていきました。

父が母の手を振りほどいた時、「ああこの二人はもうダメなんだな」と、幼心に思いました。

車の中で、夜遅かったこともあり僕は眠ってしまいました。

そして朝起きたら、知らないボロ家にいました。

2番目の姉も一緒にいました。

1番上の姉は学校のこともあり父に引き取られ、
次女と僕は母と一緒に住むことになりました。


〈奇妙な母子家庭(?)生活〉

実は、母に引き取られたのは次女と僕だけではありません。

母の父と兄もボロ家で一緒に住んでいました。

要は母方の祖父と叔父ですね。

祖父は不愛想な人で、彼の部屋には入れてもらえなかった記憶があります。

特に話した記憶はありません。

タバコと賭け事が好きな人だったような気がします。

叔父はニートで、部屋の押し入れでずっと寝ている人でした。

時折パチンコや飲み屋に行き、気まぐれに僕と次女とかかわるような人でした。

僕と姉のお年玉を主な収入源としている人で、まあろくな人ではなかったですね。

こんなちょっと(?)個性強めなメンバーで、母子家庭生活が始まりました。


〈保育園児時代〉

いきなり母子家庭生活になり、生活水準は大きく下がりました。

母は仕事で大変なので、僕は保育園に行くことに。

父親と長女と離れ、よく知らない祖父とニートの叔父と暮らし、新しい保育園という慣れない環境下で、不安定な生活でした。

そして保育園時代の僕は、今とはかけ離れていました。笑

男子と早食い競争をしたり、女の子からモテてバレンタインチョコをたくさんもらい、外に出るときは人に靴を出してもらうような園児でした。笑

今でも謎です…笑
体育会系の素質があの頃はあったのかもしれません。笑
今では考えられません。笑

帰りは母親のお迎えが遅く、いつも最後までお迎えを待っている子でした。

家はいつもせわしなく荒れていて、母と叔父が殴り合ったりしていました。

壮絶すぎてあまり覚えていないのですが、母親が殴る殴る。笑

「おかあさんを守らなきゃ!!」という感じでもありませんでした。笑

あと、保育園のお昼寝の時におねしょをよくしていました。笑
なんか家庭環境と精神状態が影響するらしいですね。
恥ずかしかったのと、惨めだった記憶があります。


〈小学校時代〉

少しずつ自我が芽生えてきた時期です。

時折気まぐれのように家に来る父や、仕事で不機嫌で、家で叔父と殴り合う母。

これはどういうことなんだろう、と少しずつ考えるようになりました。

視野が広くなってきたんですね。

友達の家に行くと、明らかに生活レベルが違っていて、ゲームやおもちゃがすごくうらやましかった記憶があります。

ある時友達の親から、プラモデルを買ってもらったことがありました。

とてもうれしかったのですが、何となく「母子家庭の可哀想な子」という見方で見られていて惨めだった記憶もあります。

そんなことを考えるような少年でした。

また、小学生にもなると同級生と家族の話をするようになります。

みんな当たり前のようにお父さんお母さんの話をするのですが、

自分の家の状況は、当時の自分からしたら説明ができないので、いつも濁していました。

それに、母から「離婚しているとは絶対に外の人に言うな」と指令を受けていたため、

「自分は悪いことしているのかな・・・。」と後ろめたく感じていました。

たぶん友達に言ったところでそんなにたいしたことではなかったと思います。

そんなのみんな、大して興味ありませんからね。笑

母の都合(外の目とかママ友とか)だったのだと思います。

母を守りたい気持ちもありましたが、つらい環境だったので、

友達と共有したいな、と思っていた記憶があります。

〈小学3年生で引っ越し〉

同居していた母方の祖父が亡くなりました。

そこから母と叔父の殴り合いが激化し、生活がままならなくなったので、

引っ越しをすることになります。

僕にとっては、ようやく環境に慣れてきて友達もできた時期だったので、悲しかったことを覚えています。

自分としてはここにいたい、もしくは父の家に帰りたい、と言いましたが、聞いてもらえませんでした。

ただ母に付いて行くことしかできませんでした。

〈そしてまた、奇妙な居候生活へ〉

引っ越し先は、母の知り合いだという通称「ママさん」(60代?)という女性の家でした。

読んでも伝わらないと思いますが、僕も今でもよくわかっていません。笑

母がその人を「ママさん」と呼んでいたことと、

家がきれいでそこそこ大きかった、ということは覚えています。

おそらく「ママさん」は、仕事を辞めて、人生のセカンドライフの時期の人でした。

なぜその人と母が知り合ったのか、そしてなぜそこに居候することになったのか。

今でもよくわかっていません。

母はそういうことは教えてくれませんでした。

「家に帰りたい(父の家)」といっても、聞こえないふりをされ続けていたので、

僕も「何を言っても無駄なんだな」と、その環境に適応することだけ考えていました。

学校生活はそれなりに楽しかったですが、

やはり先生から「この子は特別な子」という目で見られていて、

家でも「ママさん」から特に愛情を注がれるでもなく、僕も警戒していたので、

やはり不安定な環境でした。

「ママさん」のご機嫌を取ることに徹していた記憶があります。

しかしそこも、1年間くらいで引っ越すことになります。

母とママさんがダメになったらからです。

父と同じパターンです。

母も母で、経済的な問題だけでなく、不安定な愛着問題を持っていた気がします。

〈小学校3年生、2度目の引っ越し〉

父の家の隣駅の町に引っ越しました。

結局そうなるんかい!という感じですね。

でもまあ、奇妙な母子生活、居候生活に比べて多少は安定するかと思いましたが、

全然そんなことはなく。
むしろここからが地獄でした。

父は塾講師をやっていたので、僕はその塾に通うことに。
(もしかしたらその影響で隣駅に住むことになったのかもしれません。)

そして、父と母のせめぎ合いが再開します。笑

母は、「父が可哀想」だとかなんとか理由を付けて、父の家に勝手に入り込み家事をするようになりました。

また、父の塾に通う僕に対し、「父にこれをやりなさい」と指令を下すように。

主に家事関連です。(父の布団を干してこいとかです。笑)

父は母に対して愛想を尽かしていたので、母の指令で動く僕が気に食わず、「やめろ!!!」とキレてきます。

母が勝手に家事をするのも、僕にキレてきます。

僕は母にそれを伝えるのですが、母は聞く耳をもちません。

また母から指令が下りてきます。断ったら、母にキレられます。

家は「ここに入るな」などの張り紙だらけになっていきました。

父も子どもですし、母も子どもです。

「話し合い」という選択肢ができない。

代わりに僕を罵倒します。

地獄でした。

仕事に疲れている母親から物を投げられることも良くありました。

「八つ当たりしないでよ!」と言うと、

「八つ当たりしねえとやってらんねえよ!!!」と返ってくる。笑

そんな家庭環境でした。

自分の思春期とか、自分の時間とか、そんなものはありませんでした。

父に対して過干渉な母と、子どもを媒介してしか意思を伝えられない弱い父の狭間で、

「調整役」として生きてきました。

どう調整しても報われないゲームです。笑

子どもを「自分のエゴ(無自覚)を伝えるツール・道具」として

両親は僕を使っていました。

そのあたりから、僕は心が壊れていった気がします。


あーー、疲れました!!!!今日はここまでにします。
あまり気持ちの良い話ではないと思いますが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

また書きます!

何か感じたことがあればぜひ、コメントくださいね(=゚ω゚)ノ
ではでは~♬

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