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ことば、話すことを治療の対象にするとは

吃音への注目は年々高まっている。
吃音をテーマにした映画や漫画作品が増え、メディアで吃音を公言する文化人・芸能人、一般当事者の人が増えた。

吃音とは、むかしの言葉で言うと「どもり」のことで、音を繰り返したり、引き伸ばしたり、詰まったりするような症状が現れることばの障害である。

産業構造の変化に伴い、話すことを求められる職業が増えている。吃音に限らず、「話すこと」や「話し方」への関心も、ますます高まっているのではないだろうか。

ことばの発達と回復を支える言語聴覚士

私は、言語聴覚士(げんごちょうかくし)という仕事をしている。吃音をはじめとする言語障害(そう、言語障害にもいろいろとあるのだ)の支援・指導に携わる。
具体的には、話すことの練習をしたり、発音を直したり、読み書きを教えることもある。英会話ではなく母国語での会話の練習をし、英語の発音ではなく、日本語の発音を指導し、英語の読み書きではなく日本語の読み書きを教える、そういう仕事だ。

こころの次に、ことば

これまで一般には馴染みのなかった言語治療や言語療法。
これは今後、変化していくのではないだろうか。

話は打って変わって、心理領域(こころの治療)の話をしたい。
よく誤解されるのだが、心のケアとことばのリハビリや治療は全然違うものだ。

さかのぼると1990年代、臨床心理学や「こころの病理」について、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災後に認知度がぐっと上がったということがあった(らしい)。

さらに2010年代、東日本大震災を経て、健康な人にも「こころ」や「メンタル」のケアやメンテナンスが必要だという意識が広まりつつある。
たとえば、都市部を中心に、コーチングがブームになり、心理療法・カウンセリングがぐっと身近になった。
アドラー心理学、マインドフルネス等メンタルマネジメントに関連する本は、ビジネス書のひとつのジャンルとして地位を築いている。
脳科学ブーム、心理学ブームに続き、行動経済学という経済学と心理学を融合させた学問や、進化心理学という生物としての営みに行動の根拠を求める学問も流行しているらしい。
認知行動療法や応用行動分析などの有益な心理学の知見は、自閉症児の療育のみならず、ダイエットや禁煙、それこそ吃音の治療に至るまで、さまざまな産業に応用されるようになった。もちろん、「発達障害」など目に見えない障害の世間認知度は、10年前と今ではまったく違ったものとなっている。

こうした、心理学や心理治療・こころのケア、セラピーの世間への浸透は、言語療法とも決して無関係ではない。
心理治療に比べるとその知名度はまだ低いものの、「言語聴覚士」を名乗ったときの周囲の反応は、以前よりずっと前のめりである。

ことばのことでケアやメンテナンスを受けるという感覚は一般的ではないものの、社会全体の認識のステップとして、心理治療・心理療法のその次に、言語治療・言語療法が受け入れられていくのだと思う。
おそらく30年後には、失語症*を持つ高齢者層が望む言語リハビリテーションは今とはずっと違ったものになっているだろう。

言語特有の問題、日本特有の問題

心理領域とは異なる、言語特有の問題もある。というか、言語の場合、日本特有の事情に留意する必要がある。
日本という国では、たいがいの場所で日本語が使われている(実はそうでもないのだが、表面上はそういうことになっている、という指摘もある)。
こうした、日本語イコール日本、言語イコール国、日本語話者のマップと日本という国自体のマップがぴったり合う単一言語の国に住まう者の感覚として、言語やスピーチ(話すこと)を切り離して医療のように治療の対象とする、というのはやや奇妙な感じがするのではないだろうか。

心を身体と切り離して治療の対象としたように、ことばを自分から切り離して治療の対象とする、というのは了解されていくだろうか。

知的能力と言語能力を分けてとらえる習慣

知性(知的能力)と言語能力を分けて考える習慣にも馴染みがない。
この点は、吃音の人に限らず、自閉スペクトラム症や、外国ルーツの子供たち(大人も)、聴覚障害の人、特定の言語障害や読み書き障害の人など、言語運用能力と知的能力のあいだにギャップ(個人内差)がある人たちの生きづらさにつながっているだろうと想像する。

「X の人は、(ただことばに詰まるだけで、ただ文字が読めないだけで、ただ日本語がわからないだけで…)頭が悪いわけじゃない」などと表現することもある。あるし、まったくその通りなのだが、それは、ほんとうにその言葉でいいんだろうか、と思う。
マンパワーの乏しい教育/療育の現場では、「知的障害の子には通常の支援、特別なギャップがある子には特別な支援」ということに発展しかねやしないかとひやひやしている。。

とにかく、そのあたりのことが広く認識されていくには時間がかかるし、議論がまだ未熟だと思う。そのことと、日本語イコール日本であることは少なからず関係がありそうである。

知育ブーム…なのに、ことばの知育だけ進歩してない!?

以前からずっと不思議に感じていたのだが、知育(小さいお子さんが楽しみながらお勉強できるアクティビティのこと)では、言語を扱うことが少なくはないか。あるいは、やっていることが、ずいぶんと古くはないか・・・。

知育的活動のなかで目にすることが多いのは、指先を動かすこと、色や図形をマッチングさせること、なにかを探したり組み立てたりすること、図画や工作などである。

言語的な知育活動で目にするのは、絵本の読み聞かせ、英語の聞き流し、ひらがなの早期教育、フラッシュカード。
読み聞かせはいいとして、そのほかの「ことば」にかんする活動は、早期教育(仮名読み、英語、辞書的な語彙知識)に偏っている印象を持ってしまう、、私の誤解だろうか。

知育のなかでも特にワークやドリル、あれは邪推すると、核家族専業主婦世帯で子どもが複数おり、今のように調理家電やロボット掃除機など無かった時代、おかーさんが家事をしている間に子どもがひとりで放っておいても活動してくれるようデザインされた、当時の通信教育の名残りなのではないだろうか。

こどもは、文字言語ではなく口頭言語から先に獲得する。つまりことばの力を付ける活動・ことばの知育には、たいてい話し相手が必要である。そこも、時代の変化に取り残されている。

育児書のなかで、「ことばの発達」はマイナージャンル!?

育児書棚で最も売れるのは、「賢い子になる」「頭のよい子に育つ」「非認知能力が身につく」などのタイトルだそうだ。

「豊かなお喋りの力を〜」「ことばのめばえを育む〜」では、上記のパンチラインと戦っていくには弱いのかもしれない。
書棚をめぐってみると、確かにどの本屋でも、ことばのことについて書かれた本は、発達障害のコーナーか専門書籍のコーナーに散逸している。必要な人に届いているのだろうか。

ことばの障害、ことばの支援

心理領域では、「こころの病理」についての理解が1990年代、メンタルのケアについてが2010年代と、20年かかっている。
言語領域も、「ことばの障害」についての理解浸透にあと10年、「ことばの支援やケア」についてあともう10年、なのかもしれないし、あるいは。




*失語症…脳梗塞や脳出血などで、後天的に生じる言語障害


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