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『マイクロアグレッション』に対して私たちはどう理解を深めれば良いか

マイクロアグレッション

 『マイクロアグレッション』とは、日常の無自覚な差別のことです。

 つい先日女性蔑視だとして大問題となり、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長を辞任することとなった森喜朗氏の発言など記憶に新しいことでしょう。

 そして昨日もマイクロアグレッションに関してこのような毎日新聞のニュース記事が伝えられました。

 Wikipediaにも既に『マイクロアグレッション』の項目が出来ています。
 いまだ馴染みがない言葉で様々な議論や批判もあり、それなら黙るしかないじゃないかという開き直りのような反発も想像に難くありません。


 『マイクロアグレッション』が今後日本における大きな社会問題として取り上げられるようになった時に私たちはどのように理解を深め対処すれば良いのでしょうか。


 マイクロアグレッションを理解する時のヒントとなり得る作品として、私が先日Twitterでリンクを貼って紹介しました

映画『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して(原題:Jimmy P: Psychotherapy of a Plains Indian)』について改めてnoteの記事として取り上げたいと思います。

 記事の性質上若干映画の内容のネタバレを含みますので、映画を未見の方はご注意ください。
 ちなみにこの映画の内容は実話で、「夢の分析:或る平原インディアンの精神治療記録(英語名:Reality and Dream Psychotherapy of A Plains Indian (1951)」という原作があります。

 この映画には、原因不明の悪夢などで体調に異変を来す繊細なネイティブアメリカンのジミー・P(ベニチオ・デル・トロ)が遭遇するさまざまなマイクロアグレッションと思われるシーンが登場します。

 ジミーは体調不良が続いた後に病院へ行き、そこで病いの原因を探るために呼ばれた人類学者でもあり精神分析医でもあるマチュー・アマルリック演じるジョルジュ・ドゥヴルーによるセッション(カウンセリング)を繰り返します。
 戦争のケガによる後遺症など器質性によるものなのか、母や姉など家庭環境や恋人との関係による心因性によるものなのか、検査と並行してジミーとジョルジュは長時間にわたる丁寧なセッションを続けますがその過程でジミーが遭遇する様々なマイクロアグレッションが彼を追い込んでいきます。

 映画の中で描かれるそのマイクロアグレッションは、ジミーと関わる人間が彼を本名でなく親しみを込めたジョークとして『酋長』と呼ぶことであったり、ネイティブアメリカンとしてのジミーが受ける様々な制約(求められる書類の多さ、ジミーの書類にジョルジュの署名が求められたりなど)であったり本当に誰もが日常的に目にするような出来事です。

 周りは無自覚で悪意は無く、それどころか親しみを込めた善意で為す行為なのでジミーが必死に自分の本名で呼んでくれと叫んでも相手にしません。そして制約もネイティブアメリカンを背景とした制度であるものや、全く関係ないみんなが従っている業務上のものなど、一概に『差別』と考えにくいものがありますが、一つひとつのささいな日常のマイクロアグレッションが結果的に彼を追い込んでいる様が描かれます。

 「マイクロアグレッション」は、アメリカの精神医学者であるチェスター・ピアスによって提唱されたものですが、この映画にジョルジュとして登場した人類学者は実在の人物で、アメリカで先住民と生活をともにしながら研究をし、その後1963年にフランスへ渡り「民族精神医学」と題した授業を開講したジョルジュ・ドゥヴルーその人です。

 以前ジョルジュ・ドゥヴルーや民族精神医学について調べてみようと努力しましたが、論文や著作も原文のままが多く自分には厳しいものでした。
 その過程でジョルジュを知る手がかりとしてたどり着いた臨床民族精神医学でのトビ・ナタンの本は非常に興味深いものでした。トビ・ナタンはジョルジュ・ドゥブルーに師事した臨床心理学者で『他者の狂気―臨床民族精神医学試論』という書物があります。


  民族精神医学の中でも臨床的な分野に関してのことかもしれませんが、上記本の訳者あとがきで哲学者でもある松葉祥一さんが書かれていたことが非常に分かりやすかったので引用させていただきます。

 著者の提唱する〈民族精神医学〉とは、文化的背景の異なる人びとの心の病いを、その出身文化の枠組みの中で理解し、人類学的知見や精神分析の技法も用いつつ、集団セッションを特徴とする独自のやりかたで分析・治療する方法のことである。

 意識と無意識、想像界と現実、自己と他者、過去と現在、内と外…… 人間の精神は、さまざまな二項対立によって機能しているが、これらの境界が揺らいだ時に心の病いが生じる。出身文化と移住先の文化のあいだの境界、文化と精神のあいだの境界の揺らぎがひきおこす移住者の精神疾患を治癒に向かわせるには、この二項対立・二重性を多元項の中に置きなおして相対化し、新たなかたちで再構築することが、なにより必要となる。

 30年以上にわたり治療の現場に身をおいてきた著者が、具体的な臨床例とその分析を示しながら説く理論はきわめて実践的であり、とくに近年、労働力としての移住者の受け入れが急速に進み、文化的要素を重視した治療の方法が提案されはじめたわが国においても、貴重な指標となるだろう。

 現在、主にマイクロアグレッションの被害者として取り沙汰される在日朝鮮人の方を取り巻く問題に関して、当事者や支援者の方々は問題解決の方法として日本社会との二項対立を避けるためにアイヌの問題であったり、沖縄の問題を「民族問題」として取り上げているという印象があります。

 果たしてそれは二項化を相対化し多元化する解決方法となりえているでしょうか。在日朝鮮人、アイヌ、沖縄はそれぞれの問題ではなく連帯化する1つの「少数民族」の問題となってしまい、多元項の問題を二項に構築してしまいより問題を深刻化させていないでしょうか。

 沖縄に関しても沖縄問題は全て『沖縄』と『内地』が対立する問題として取り上げられますが、それでは二項対立の境界がより深刻化するだけです。

 では、沖縄問題に関しては、そこに『奄美』という項が出現すれば地域が多元項となり問題が相対化されると考えられないでしょうか。

 アイヌ民族は日本政府も認めている日本の中の少数民族です。では沖縄はどうでしょうか?議論が現在進行形で為されていると思いますが、では沖縄のすぐ隣にある奄美はどうでしょうか?少数民族なのでしょうか。
 奄美は日常的に薩摩と接して、17世紀以降は琉球から切り離され薩摩の直轄地として薩摩と日常をともにしながら葛藤してきた地域です。

 具体的にどう葛藤しているのかというと大きいのは言葉の問題(方言の違い)であったり、歴史的に離島を蔑視する人々の存在であったりです。

 現在でもそうです。
 鹿児島県の一地域ですが奄美の島々は沖縄の島々とかなり近い食文化、言語、風習、伝統などを保ちつつ日常は薩摩とともにし葛藤しているわけです。そこにマイクロアグレッションは当たり前に存在します。

 ただし、『奄美』という項が出現してもそれがこれまでの対日・対内地の政治のカードとして在日・アイヌ・沖縄としての連帯の項に『奄美』が加えられるのならば、より深刻さが増しているだけのそれぞれの問題と同じく『奄美』も(対日・対内地)民族問題という政治問題に回収されて多元化されることはないだろうなというのは個人的な推察です。
 それは『奄美』の特殊性の抹殺でもあるでしょう。

 在日朝鮮人の置かれたマイクロアグレッションの問題、沖縄の基地問題が“対日”、“対内地”という二項対立の「民族問題」ではなく、『奄美』という異なる歴史背景、日常の葛藤する地域という項を加えて多元化して問題を再構築して考えることで、当事者の治癒を目指すことが〈民族精神医学〉の臨床として治癒の一助、そして今後日本の社会問題として大きく扱われるであろうマイクロアグレッションの解決のヒントになればと思い文章にしました。
 長い文章をご覧いただきありがとうございます。

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