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写真の加工と食品の加工は、根本的に何が違うと言えるのだろう

時代に厚みが増すほど、加工されたものが好まれている。
その右手でスワイプしている端末に表示されるものは、99%加工されたものだ。

整えられた今風の部屋で、にこにこと商品紹介する動画は、カメラの裏側は段ボールが積み上げられているはずだ。出会いを求めて始めたサービスの写真は、巧妙に角度や光を駆使して満面の笑みを向けられている。面白いと感じる漫画や小説は、既存のストーリーを少しいじっただけかもしれない。著者が面白いと感じた物語に言葉の上着を着させて、ユーモラスに表現されているだけかもしれない。

決して、デバイス上に示されるものだけが加工品ではない。
着用している洋服、手に取って真実が書かれていると錯覚してしまう新聞や書籍、情報や言葉がおもしろおかしくエンターテイメントとしてつぎはぎされているもの、全て加工品だ。

「加工」と聞くと、嫌悪感を抱く人間が一定数存在するようだ。


未知なものだ、だましていると、解釈が成される。上回ってずる賢い人間は、既存のものを加工をすることで、人をだましているかもしれない。オレオレ詐欺で声を変え搾取する事件性を孕んでいるものから、おっさんと呼ばれる人々が美少女になるカメラアプリを愛好して流行しているやさしい現代まで、すべて加工だ。

星が何個付くと崇められた料理店。食材を加工し、これからはSNS運用も完璧にこなさないと流行らないよねと流されて、加工された料理がお収められた画像を加工し、動画や写真と化してネットの海に投げられる。

加工食品であるハムやソーセージを食す行為と、加工されてキラキラに見えた商品のために実店舗へ行き、写真をとって加工して自分のSNSにあげるまでの一連の流れは、”加工している”という尺度で考えたら、同じだろう。

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加工はリスクが生じることが前提として存在している。そして、人々が嘘だ裏切られたと感じるラインが曖昧だ。

アプリで顔の写真を加工することは、誰しもが行ってるから抵抗感を感じないが、美容整形する加工は、嘘だからだめだ。そんなことを嘆く人は、加工という着眼点では本質は同じなのに、なぜ抵抗感が産まれるのだろう。人間が動物として「子孫繁栄させて生き物を残し続ける」ために、ナチュラルな美を求めると回答するのであれば、本能として片付けてしまうだけでは気持ちが悪い。

加工を手にして加工を続けて、喜んで消費しつづけるのであれば、欲望を満たしてくれる点ではなんら変わらないはずでしょう。

アプリで写真を加工し、SNSへアップロードし続ける行為をはじめとする、多くの皆が行っていることは、知っているものだからと判定されて恐怖対象と化さない。己が試したことがない分野は、未知の領域だから恐怖を覚える。知らないだけで、恐怖対象になっていることも知らずに、拒否反応を感じている。

人間は不思議な生き物。なんとなく気持ち悪い・恐怖だと感じるものは、スピリチュアルに感じるだろうが、経験値と憶測だけで作り上げられた「カン」を利用する。

加工自体に恐怖を感じるのではなく、加工が実行された裏側の、その別の欲望を確認することで、避けていくシステムが携わっている。うまくできたものだ。

加工に憧れて、加工に欲望を向けて、日常にあふれている加工に気が付くことがなく加工を生産している立場になっていても、加工そのものだけではなく、付随する、裏側のものに目を向けなければならない。

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