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短編小説『空ひとり』

遠くで鈴の音が聞こえた気がして目覚めると、空につったっていた。
上下左右どこを見ても無限の青とちぎれ雲で、天地がどこにあるかもわからない。

一歩ふみだすと足の裏を軸にして私の体はぐるりと逆さになった。
そうしてふみだす度にぐるりぐるりと回るので、いっこうに前に進めない。
これは困った。
私は回るのをやめにして、その場に座りこんだ。

そもそも私はなぜこんな場所にいるのだろうか。考えるだに、私が何者であるかさえ、覚えていないということがわかってきた。

「どうりで足元がおぼつかないわけだ」

何も思い出せないのだから、何かをはじめる気にもならない。
手持ち無沙汰に髪をいじくりつつ、しばらくの間座って待ってみたけれど、何も起こりそうもない。私は待ち疲れ、ため息をついて腰をあげた。

「おーい!」

何に対してなのかわからぬが、大声で叫んだ。

「おおい! 誰か!」

もう一度叫んだ。
まるで助けを求めているようじゃないか。そんな響きの声になった。
返事はない。

私は急に淋しくなった。

前に進もうとして進めず同じ場所を回りつづけるのと、誰もいないのに必死になって誰かに助けを求めるのと、どこか似ている。

「そうか、どちらも空まわりなのか」

ここがどこで、自分が誰だかわからない。
むしろわかっていることが、何一つない。
そうか。
からまわりして、当然なんだ。
私は自分に対して、頷いてみせた。

憂慮すべき事態に直面しているのかもしれない。けれどなぜだろう、いっそ清々しい。

私は何度かぐるぐる回って、その理由を探り当てた。

誰にもはばかることなく、空まわりできる。
これはけっこう、大きいんじゃないか。

何もわからないのだから、何をしたっていいのだ。誰もいないから、誰にも馬鹿にされもしない。

うんよし。

私は自由だ。
そう思った。こう空っぽでなきゃ、自由でない気がした。
誰かと比べられるのも、誰かと比べてしまうのも、自由でない気がした。

天駆ける風は、いつもこんな気がしているのだろうか。

天地の別なく何ひとつ持たず、駆け巡る。
駆け方にうまいもへたもないのだから、たまにはこうして空にひとり、ただ在ることを楽しみもするのではないか。

そしてそう、そのとき風は、空になる。

風は思うままに空になれるけれど、人は空にはなれないもんだ。
ひとりただ在るなんて、できないのだから。

なんて考えているうちに、遠くで鈴の音が鳴るのが聞こえた。
柔らかな風が私を包み込み、日が上の方から差し込むのが見えた。

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