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短編小説『咲く花に似て』

「私ね、どうしてもあなたに笑って欲しくて、普通の人の何倍も、笑うようにしていたの」
小さな子供の手を引いて、女性は言った。
「それをね、結婚しても変わらず続けていたら、いっつも悩みがなくていいですね、とかね、今日みたいな日にまで、ご近所に言われたりして」
大きな病院の出入り口まで来て、振り返る。
そこには、眼鏡をかけた男性がいて、「それは、違うよね」と言って、うなずく。
「君は、人一倍、愛情が深い」
館内のアナウンスや、人々のざわめきも、聞こえなくなりそうなくらい、やわらかな笑顔を浮かべる。
「そのぶん、悩みだって深い。でも君は、誰かに笑って欲しいとき、率先して笑ってしまうから、誰にもその悩みが見えないんだろう」

眼鏡の男性は左足を骨折していて、松葉づえをついている。
女性と、子供と、眼鏡の男性は、家族だ。
子供は、二人の子供ではなくて、男性の兄の遺児だった。
六歳になる女の子で、無口だが、母となった女性の影響か、誰かと目があうとニコニコと笑う。

三人はそろって病院を出て、家に帰るために駅へと向かう。
駅まで続く街道の並木は桜で、満開を過ぎ、散りかけな上に風もつよいので、淡いピンクのカーテンを行くような気になってくる。
「あなたが交通事故だなんて。病院から電話が来た時、心臓が止まるかと思った」
眼鏡の男性は、狭い道を強引にやってきた車に足をひかれてしまった。大きな病院で検査と治療を受け、入院にはいたらなかった。
「君の心臓、止まらなくてよかったよ」
「もうっ、笑いごとじゃないんだから」
これからは、気を付けてねと言いそうになり、女性は言葉を飲み込んだ。夫は、非常に思慮深い。言うまでもないことだろう。
二人のやりとりを聞いていた娘が、ふふふ、と、笑う。
女性は立ち止まり、その小さな頬に、自分の頬を寄せて言った。
「ちかちゃんが笑うと、花が咲くみたい!」
じゃれあう娘と妻の姿を見て、夫は目を細める。


「あなたが笑うと、背中に花が見えるの」
とても寒い日だった。
公立高校。卒業式を目前にひかえた、ひと気のない屋上で、缶のホットコーヒーで両手をあたためながら、二人は校庭を眺めていた。
「花ってすごいよ。だって、自分がどんな色形かもわからないのに、ひたすら育たないといけないし。そしてやっと咲いても、自分が美しいかどうかさえ、知ることもない」
と、厚手のコートとマフラーをつけた寒がりの少女は、白い息を吐きだしながら話し続ける。
「それでね、思ったの。誰かに向ける笑顔って、どんなものかは、自分には見えないじゃない?」
花と似ているなって。そう言って、目線を彼に向ける。
「あなた、昔言ってたの。どんな人にも目に見えない過去があるって。でも、それはね、よーく見ていたら、どんなものか、目に見える瞬間がある。それは、笑ったとき」
どんな風に生きていて、何がたのしくて、何が大切で、何のために、笑うのか。そういういろんな要素が全部出るのが、笑った時なのだ。と、少女は言う。
「あのね、だからね、あなたは花とおんなじように、強い人なの。小さなころからずっと、たとえ自分の身が大変なときでさえも、誰かのために、笑うことができるのだから」
上手に言えてるかな。と、不安そうに苦笑する少女へ、少年は目を向けることができなかった。顔が熱い。
「覚えてるよ」
「え?」
「君と、その話をした日のこと」
生まれて初めて、人から「好きだ」と言われた。大切な日だった。
あなたの笑顔が、大好きだよ。そう言われた。だからそれから、笑う努力をしてきた。いまだに得意ではない。
「私ね、あれからたくさん、考えたんだよ」
少女は顔を赤くして、軽くうつむいた。
「それからね、私ね、あれから、何も変わってないよ」
幼いころのように簡単には、想いを口にできない。
敏い少年には、それもこれも、わかった。
どう応えるべきか考えるより先に、顔をあげてとお願いして、目を合わせて、精一杯の笑顔を返した。

人には、いろんな過去ある。その重みのぶん、笑顔は強い。

はらはらと舞い落ちてくる桜の花びらが、妻の肩に乗ったのを、そっと拾う。
それを、娘の手のひらにのせた。
「僕も、ちかの笑顔が大好きだよ」
娘のちかは手をにぎりしめ、満面の笑みを向けた。

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