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「FINAL FANTASY XVI」クリアレビュー:"大人向け"の意味を考えさせられる

※ネタバレ有

はじめに

6月22日に発売されたスクウェアエニックスの超大作、『FINAL FANTASY XVI (FF16)』をプレイしたのでその感想を書きたいと思う。
本作は『FF15』や『FF13』など、近年の「ナンバリングFF」の開発を担当していたスクウェアエニックスの第一開発事業本部ではなく、今なお人気の絶頂を超え続ける『FF14』を担当した吉田プロデューサーと第三開発事業本部が送る作品となっており、また前作『FF15』をはじめその他のJRPGでも浸透しつつあった「オープンワールド化」の流れの逆を行くリニア式のRPGである事が早期から発表されていた期待の話題作でもある。

筆者であるわたしはナンバリングFFに限って言うと『FF5』『FF10』『FF10-2』『FF12(TZA)』はプレイ済みで、特に『FF12』はかなり好きな作品だ。
今回、初めてナンバリングFFのタイトルを発売日に買ったわけだが、その理由はマザークリスタルを巡る各国の政治劇や戦乱の歴史を描いている事、「ロザリア」「シドルファス」などのイヴァリース作品と共通するワードが多数登場すること、本作のプロデューサー吉田氏が『FF12』プロデューサー松野氏の大ファンである事を公言していて『FF14』の中に松野氏がシナリオを手掛けるイヴァリースに纏わるストーリーを実装してしまうほどという事など、『FF12』ひいてはイヴァリース作品好きがプレイしたら満足できるゲームになっているはずだと確信したからだ。
(それと、独占タイトルがほとんど出ないPS5を置物にしたくないという気持ちもあった)

結論から言うと、本作は評価が難しい作品だ。サブクエストとモブハントを全て終わらせた上でクリアしたが、アクションも無難に面白く、演出面の出来はかなり良い。世界観も十分に作り込まれている。特に従来のFFファンや『FF14』プレイヤーは満足できる仕上がりだろう。
しかし、肝心のストーリーは恐らく好みが分かれる。クセが強い物語なのかというとむしろその逆で、毒にも薬にもならず印象に残らないシナリオである。残念ながら、少なくとも手放しに「感動のストーリー」と言えるほどの作品ではなかったのは確かだ。
また長文となってしまうが最後まで読んでもらえれば幸いだ。

良かったところ

爽快アクションとビルドを組む楽しさ

本作の敵との戦闘はアクションゲームとなっており、瞬間移動、ジャスト回避とカウンター、派手なアビリティなどを使って爽快感のある戦闘を楽しむことができる。
近年のゲーム界隈ではフロムソフトウェアやカプコンのタイトルを始めアクション要素の強いゲームはトレンドとなっており、この『FF』シリーズを始め従来のコマンド式RPGにアクション要素を取り入れたり、アクションRPGとして生まれ変わらせたりしているタイトルも多い。
その一方で安易に「ジャスト回避」や「パリィ」要素を取り入れてアクションゲーム化しているタイトルは、これまたここ数年のトレンドとなっている「オープンワールド化」と同じように陳腐化していたように思う。ヒットボックスやジャスト回避判定フレーム管理の杜撰さ、予備動作の作り込みなど、所詮本場のアクションゲームには劣って見えてしまうことがよくあるので、個人的に本作の戦闘にも正直あまり期待していなかった。

しかし本作の戦闘はシンプルながらヒットストップやコンボの難易度など、しっかりと作り込まれていて面白いと感じられる仕上がりだった。
斬撃や魔法といった基本的なアクションに加え、バトル中は習得した召喚獣アビリティを使って特徴的なアクションを繰り出すことができる。しかし一度に使えるのは3種類のフィートと6種類のアビリティに限られ、どれを組み込むか、どういう作戦で使用するかという「ビルドを組む楽しさ」が生まれている。どのアビリティも視覚的にわかりやすく強さを感じられて魅力があり、特に召喚獣アビリティが出揃う物語終盤は選ぶのが難しい。

面白いのは、この中に「アクション性を否定するアビリティ」も含まれていることだ。バハムートやラムウのアビリティがそれに当たるのだが、オーディンやタイタンのようにパリィ・ジャスト回避一辺倒でアクション性を押し付けるでもなく、かと言って「パリィのテクニックを必要としないから弱い」とはしていない。
初期装備にある自分への攻撃が全てQTE化する「オートスローの指輪」やアビリティを自動で適宜使ってくれる「オートアタックの指輪」も、バトルのアクション性を下げるもののデメリットは3つあるアクセサリ枠のうち1つを占有する程度でほぼ無いに等しい。

フレアブレスとバハムートウィングで雑魚戦もラクラク

このように本作はアクションゲームだがアクション性を自分で調整できる余地を残している。そのため、上手く戦えないストレスを避けつつもボタンを連打するだけの単調なゲームにせず、爽快感のあるアクションやビルドを組む楽しさという美味しい部分だけ体感しながらサクサクと物語を進めることができた。
この辺りが所謂本場のアクションゲームとは違うところで、アクションゲームではテクニックを習得したり強敵に勝てるようになる成長の過程こそがゲーム性としていることが多く、こういったアクション性を否定する要素はあくまで補助輪としているのが一般的だ。しかし本作のアクション性を調整できるゲームバランスはRPGを本筋とするゲームならではといったところで、肩の力を抜いて気楽にプレイし、物語に集中することができた。本格的にアクションゲームを楽しみたいなら縛りプレイのような事をするのも悪くないだろう。


演出・映像美

演出は最高の一言に尽きる。PS5専用ソフトになったことによるグラフィックの向上が良い影響を与えていて、特に召喚獣バトルはイベント戦の性格が強いものの、日本の特撮やロボットアニメの影響を感じさせる大迫力のカメラワークと演出で興奮が止まらなかった。

シヴァといえばダイヤモンドダスト。この火山でのシーンは、シヴァの陶器のような質感の肌に結露した水滴まで描かれていて、ディティールへの拘りに感動した。

本作のバトル演出における大きな特徴として、「技名表示」がある。旧作にあった画面上部のダイアログで表示されていたものがそのまま画面中央上に表示されるといった感じのものだが、これらはカットシーンでもしっかりと表示されるためFFファンならお馴染みの技が新型ゲーム機の美麗なグラフィックで再現されるのはやはり盛り上がる。戦闘中では演出と同時に「予備動作と見切り」に頼らないアクション性を提供していて、戦闘の没入感が増す演出となっていた。

魔法剣士じゃないか!
赤魔道士じゃないか!

必殺技に名前がついているのは「大人向けの」世界観に反して少年漫画的な演出だが、本作のバトル演出、特に召喚獣バトルは全体的にそういった方向性のものが多く、好みは別れそうだが個人的にはより感情移入して楽しむことが出来た。

また戦闘以外のカットシーンにおいても、グラフィックが向上しキャラのモデルがよりリアルになったことや、フェイシャルキャプチャを導入してアクターの表情までゲームに載せている事もあって、繊細な表情の付け方や目線、被写界深度も含めたカメラワークや画面構図など、実写映画に引けを取らないほど非言語的な情報量が多く楽しむことが出来る。
本作はエンディングまでのプレイ時間の中でカットシーンが占める割合がかなり多いことが発売前から告知され賛否を巻き起こしていたが、個人的にはこういった高品質グラフィックの賜物とも言える情報量の多さからあまり退屈せず、十分に楽しむことが出来たのであまり気にならなかった。

最後にもう一つ、本作の演出を語る上で避けては通れないのがdualsenseコントローラーの独自機能による新たな演出だ。
独自機能の一つであるハプティックフィードバックはNintendo Switchで言うところのHD振動と似たような機能で、剣戟の衝撃や足音、身体を引き摺られている感覚、モンスターの咆哮などをコントローラーを握る手からも感じる事ができる。そしてもう一つの独自機能であるアダプティブトリガーはトリガーの硬さが変わる機能で、本作においては鉄格子や重い扉を開ける際にその重さがプレイヤーにも感じられるように使われていた。
いずれにしても、従来までの視覚と聴覚に加えて新たに触覚からも伝わる演出は全体的にゲーム体験のレベルを引き上げていて、新時代のゲームを垣間見たような気がした。前述の通りカットシーンが長く、ゲームではなく映画と揶揄されても仕方がない本作だが、触覚を通した演出はコントローラーを握るゲームならではの大きな魅力と言える。
今後Steam版やXbox版がリリースされる事もあると思うが、どんなハードであれdualsenseコントローラーを使ってプレイした方がより『FF16』を楽しめるのは間違いないだろう。

何とも言えないところ

シナリオ

シナリオの良し悪しを評価するのは難しい。誰が見ても明らかなほど設定や起承転結が破綻していない限り人それぞれの好みがあるし、視聴者の受け取り方や目線、読解力によっても印象が異なるからだ。もしシナリオに「わかりやすく普遍的な良し悪しの基準」があったとすれば、世の中は「良いとされる」退屈なシナリオの作品で溢れかえっているだろう。
そういった理由から、シナリオ評価については「悪かった」とはせず「なんとも言えない」と評させてもらう。本作のシナリオは明らかに破綻していると言えるほど悪い訳では無いが、かと言ってかの『FF10』のように感動的なシナリオが待っているわけでもなく期待していたほど印象に残らなかった。その理由をいくつか挙げようと思う。

①わかりやすい勧善懲悪

本作の主要なキャラクターはほとんどが良い歳した大人で、映画的な演出に加えゴア表現やセクシーなシーンも多いことから、所謂「大人向け」を意識して作っている作品というのは発売前PVなどからも簡単に読み取れるだろう。
しかし本作のシナリオは特に物語後半に顕著なのだが数多くのキャラクターが登場するもののわかりやすい勧善懲悪モノで、味方キャラは善人、敵キャラは倒すべき悪人としてわかりやすく描かれており「大人向け」の表現によって高められたリアリティや緊張感が打ち消されてしまっている。

ヴァリスゼアの世界においては一般的にベアラーという人種が奴隷のように扱われる被差別民族なのだが、主人公の仲間になる人物は全員ベアラーに対する差別感情を持っておらず、私財や自らの命を投げ売ってベアラーを保護する聖人ばかりで裏切ることもない。
作中ではマザークリスタルを破壊するために行く先々の街の有力者と話を付け一時的な活動拠点を作るわけだが、市民から信頼を得ている街の有力者も皆ベアラーを保護しているわかりやすい善人で、協力を取り付けるのもさして苦労しない。そのため基本的には社会インフラを破壊して回っている大罪人とは思えないほど大手を振って街なかを歩けるなど緊張感に欠けている。
一方で敵として現れる人物は容易く仲間を裏切りベアラーを粛清したり囮にしたり、ゴア表現も使ってどうぞ憎んでくれと言わんばかりのわかりやすい悪として描かれている。

「わかりやすい勧善懲悪」が悪だと言うつもりはないし、敵味方がはっきりしているシナリオでも良い作品は山ほどある。ただ、せっかく作り込まれたヴァリスゼアの歴史や文化、各国の情勢、主要人物の思惑といった設定を「敵と味方」で二分してしまうのは上手く活かせておらず非常にもったいなく感じたし、逆に言えばわかりやすい勧善懲悪の王道ストーリーを主軸とした場合ヴァリスゼアの社会情勢をダークな雰囲気で描くのはノイズになっていて、最初から悪の帝王アルテマとその部下たちとの戦いというシンプルな構図にしたほうが良かったように思う。
そして、外道であり憎んでください倒してくださいと言わんばかりの「わかりやすい悪」を描いているにも関わらず、そのほとんどが勝手に死んでいて正面からぶつかり合って自分の手で倒すことによるカタルシスを得られないのは残念だった(勝手に突っかかってきて死ぬスレイプニルは特に顕著だった)

これらは作中の人種差別問題というセンシティブなテーマを取り扱っているという影響も大きいのだろうが、ベアラー差別とクリスタルに依存した社会=悪とするわかりやすい勧善懲悪ストーリーを見せられるのは意識の高い教育アニメを見させられているような気分になったし、ここまでのリアリティのある世界観を用意しているにも関わらず創作として人種差別という現実と正面から向き合うことから避けているのが毒にも薬にもならず印象に残らないシナリオだと感じた。ベアラー差別を否定しないシナリオを世に出せないから、群像劇のような物も戦記物のような物もダークヒーロー的な物も描けなくなっている、逆に言えば、ベアラーは正義と悪を際立たせるための舞台装置にしかなっていないと言う見立てだ。(無論、現実における人種差別を肯定する意図はない)

鏡を見ろと言っている

②イエスマンしかいない仲間

前項で「わかりやすい善人の味方」と「理解し難い悪人の敵」しかいないと書いたが、そう見える理由の一つして、シド(クライヴ)の周囲のキャラが悉くシドのイエスマンと化している事が大きいだろう。
主人公のクライヴは物語中盤からシドの名前を受け継ぎ、隠れ家でベアラーの保護をしながらマザークリスタルを破壊して回るのだが、本来マザークリスタルの破壊はインフラ基盤を根本から破壊する行為で非難されても仕方のないことのはずだ。実際に作中ではマザークリスタルの破壊によって都市機能は停止し、大勢の難民を生み出しクリスタルの効力が弱まったことから市民の生活は困窮している。目的である「マザークリスタルの破壊」が「黒の一帯による侵食を止める」のもシドの推測にすぎず、シンプルに考えればそれが「ベアラー差別を止めたい」という動機とは繋がりがない。
にも関わらず、本作で主人公に協力するキャラは皆ベアラー保護と同じようにシドのマザークリスタル破壊に協力的に描かれていて、市民からの信頼を集め街のことを第一に考えている人格者という設定の説得力が無い。友情パワーで勧善懲悪シナリオを展開するための道具となってしまっている。
人を人たらしめるもの、人が人として生きるために必要なのが自我だと作中で語っているのに、主人公サイドにはシドに語られた事をそのまんま目的としているクライヴとそのイエスマンしか居ないのは皮肉が効いている。

過去作を引き合いに出すと、シナリオにおいて現在でも高い評価を受けている『FF10』ではワッカというキャラクターが全体のシナリオの中で良い描かれ方をしていた。
彼は非常に信心深く保守的で、エボン教の欺瞞が明らかになりつつあった最中もなかなか現実を受け入れられず、異端であるアルベド族に対する差別感情も捨てきれずアルベド族のリュックと喧嘩するシーンもあった。こう書くと差別主義者の露悪的なキャラクターのように見えるかも知れないが、一緒に旅を続けている中で彼も悪気があってアルベドを否定しているわけでも無く、ただ保守的な性格なだけで本質的には面倒見が良くて頼れる魅力的なキャラだというのが理解でき、心情を汲み取れるように描かれていた。

また、わたしが愛して止まない『FF12』でも、侵略者であるアルケイディア帝国内部で、愛国心を持ちながらも派閥や価値観の違いによる人間ドラマが展開されていたし、アルケイディア帝国を実際に訪れれば市民もまた主人公の出身地である旧ダルマスカ王国の民と同じように力強く生きていることがわかるようになっていた。そして「神の支配に抗うという目的があったとはいえ祖国を壊し許嫁を殺した帝国」に対して「神に利用され強大な力を手に入れて復讐する」のが果たして善い事なのか悪い事なのか、悩みながら旅を続け成長する過程が描かれていた(エンディングはともかく)
本作の、特に後半にはそういった人の価値観や人格の多様さや複雑さや「それぞれの正義」を描かず、「シドのイエスマンでありベアラーを差別しない善人の味方」と「ベアラーを差別し既得権益に群がる悪の敵」という極端な描かれ方しかされていなかったのがグラフィックの無駄遣いのように思えて残念だった

③キャラクターの人格がわかりにくく、精神的な成長を感じられない

本作の主人公クライヴをはじめ主要なキャラクター達は、有り体に言ってしまえば皆アラサーのいい歳した大人だ。そのため普段は感情の起伏に乏しくそれが感情移入のしづらさに繋がっていて、キャラクターの精神的な成長もあまり感じられなかった。
物語序盤の復讐心を燃やして謎のローブの人物を追いかけている段階ではまだ良かった。クライヴの目を見ると虚ろな目をしているにも関わらずどこかピュアさのようなものが感じられ、擦れた大人になりきれず弟や祖国のことを忘れられない男だというのが伝わってくる。序章で語られるクライヴの過去を知れば普段は自暴自棄で寡黙な男として振る舞っているのに復讐のことになると感情を顕にし人一倍行動的になるクライヴの言動にはグッと来るものがあった。

しかし、物語が進むに連れて自分から弟も祖国も何もかもを奪ったものに対する復讐という目的は失われ、マザークリスタルの破壊という根拠も不明瞭な目的にすり替わった。直情的な動機で行動していたクライヴが、いつのまにか「人が人として生きる場所を作る」というシドの受け売りである他人のための崇高な理想のために動かされるようになり、内なる感情で動かなくなったのだ。そして気が付くと5年の月日が経過していて、クライヴはいつのまにかシドを受け継いでいて周囲と協力しながら上手くやっている。
プレイヤーから見てもシドは渋くてカッコいい大人で、高い理想を持っていて誰からも尊敬される人格者であることはわかる。しかしクライヴはシドとは違う人間だ。少なくとも18年前は自分がドミナントとして生まれなかったことの葛藤を抱えていたし、序盤は13年前の出来事によって無口で無愛想、だけど弟のことや目の前で人が死ぬことは見過ごせない純粋な心を持った人物だった。シドの名を継ぐにしても、そこに至るまでの成長や葛藤、周囲との摩擦を精細に描いてほしかったと思う。

同じように、「鉄王国の元で殺人の獣だった」というジルはその描写がほとんど無いために終始一貫して「昔獣だったと自称している慈悲や礼節を持ち合わせている常識人」にしか見えずドレイクブレスでの一連のイベントも説得力に欠けていたし、気弱でにぎやかな食事会も逃げ出すほど内向的だったジョシュアは18年の時を経ていつのまにか聡明でハキハキと喋るイケメンに変わっていて、声も含めて最後まで同一人物だという実感が湧かなかった。

作中の世界観ではベアラーかドミナントか一般人の何に生まれるかで人格形成を大きく変えるほど影響があるのに、ベアラーが特殊能力を持っているのになぜ差別を受けているのか、クライヴがドミナントの能力を喰うとどうなるのかといった事情が終盤の
サブクエをこなさないと明かされない。クライヴの行動原理がふわっとしてて人格が見えてこない要因の一つだ。

本作はゴア表現やセクシーなシーン、表情の機微といった映画的な演出など「大人向け」とされる演出方法がふんだんに使われていて、小さな子どもには理解しづらいエネルギー問題とそれに起因する政治劇や人種差別問題など社会派チックなことを描こうとしている設定が組まれている。
しかしクライヴを中心とするメインシナリオはそれらと噛み合っておらず、また「自我」や「人の原罪」を重要なテーマとして扱っているにも関わらず等身大の人物像や各々が抱える多様な価値観、精神的な成長をしっかりと描くことから目を背けていて変な喩えだが「幼い大人向け」の作品のように感じてしまった。


まとめ

冒頭で「FF12ファンを裏切らない作品であると確信したから購入した」と書いたが、実際にプレイしてみると主にシナリオの部分で期待していたほどの作品ではなかったというのが正直な感想だ。アクション戦闘要素もよくできているものの、『FF12』の神竜やオメガのようなそれらのシステムを活かして立ち向かう強大な敵がいるわけでもないし、クリア後のダンジョンのようなものも無ければ当然そのご褒美も無い。開発者インタビューなどを読む限り恐らくそれらのやりこみ要素は2周目をプレイさせるような作りなのだろうが、召喚獣バトルの長さや移動の面倒臭さが気になってしまいそうだ。
とはいえやはり演出や映像美は本作を約1万円で買ったことを後悔させないほど満足できるクオリティで、作り込まれた設定とそれらを確認できる”アクティブタイムロア”も世界観の解像度を上げることができて楽しめた。統括すると個人的にはプレイして良かったと思える作品だ。

本作は良い要素と悪い要素の評価が極端で、「ナンバリングFF」に何を求めているかによって評価が大きく変わる作品だろう。
しかし実態はともかく現代的な要素を排しロジカルファンタジーを徹底した世界観や「プレリュード」「メインテーマ」などシリーズではお馴染みの楽曲アレンジが多く使用されるなど、原点回帰を意識した作品を作ろうとした節があるのは間違いない。
話題性や期待を考えれば完璧な名作ではなかったことが残念だと言わざるを得ないが、FFファンは(厄介オタクでなければ)楽しめる作品であるのは確かだ。

最終的に王道バトルマンガ展開になるのなら、最初からハードボイルド気取ったおじさんも「昔の女」ポジションのヒステリックも、最強の王様が神にバブみを求めているシーンもアラサーの男女が浜で裸で抱き合うシーンも要らなかった気がする。


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