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エッセイ的なもの:過去ログ倉庫

(続きではないけど関連性のある話)

わたしは数年前からフォロー/フォロワー0の自分専用の非公開Twitterアカウントを運用している。
そのアカウントのツイートのほとんどは社会性フィルターや常識、理性といった枷が外された状態での発言で、ある日常の出来事やニュースについて内心に思ったことやどういう感覚だったか、人にかけられた印象的な言葉、或いは自分が出来るだけ真っ当に生き抜くための長期的目標、人に見せる用のアカウントによる発言の補足説明など多岐にわたる。要するに、自分の脳みそが信用出来ないので人に見せられない思い付いたことや感情を文字に起こしてログを取っているのだ。
先日、2年ぶりぐらいにそのアカウントの存在を思い出し自分のツイートを見返した。人に見せられるツイートを垂れ流すアカウントが別に存在する以上、具体的な内容は必然的に人には言えない話になるため想像にお任せするとしか言えないが、人に見られる事を意識しない人格のわたしは本当に自堕落で恥ずかしくなるような事を好き放題に呟いていた。

最近ではYouTubeなどで「理性的に振る舞わない人」を見かける機会が増えた。己の感性のままに生き表現する姿は社会の歯車として心を殺して"理性的に"生きる多くの人間にとって異質なものでもあり、だからこそ魅力的に映るものでもある。決してそのような業種の仕事が他の労働者が就く仕事より心労が無いと言うつもりは無いが、自己表現をして目立って個性を際立たせる事が本質であるという点ではある程度没個性的である事や持続可能な勤労のために感受性の低さが求められる一般的な働き方とは大きく異なる。多くの人間にとっては後者こそが当たり前の世界で、周りの人間と共にうまく暮らしていくために共通のルール・プロトコル・価値観を持つ事を善しとしているが、かと言ってそれらに対して全幅の信頼を置いている訳でもなく、酒の席やSNSで不満を零す事もある。

何が言いたいのかと言うと、少なくともわたしは自分がそうなれるかなれないか、なりたいかなりたくないかとは別に、YouTuberを始めとしたアーティストやエンターテイナーの人たちなどに憧れを抱いている。そういう人たちが人気を集めている事からもこれは多くの人に共通している感情なのではないかと思う。人目を気にせず自己表現を貫けるという点で尊敬に値するし、その中でも結果を出そうと努力している姿は応援したくなる。そんな気持ちが募って彼らの生業が成り立っているのだろう。
わたしの非公開アカウントの人格も、誰も見ていないという環境が用意されているからこそ己の感性のままに生きていて、久しぶりにそのアカウントの呟きを見た際にアーティストやエンターテイナーの人たちに向けるものと同じように好印象を持った。当然呟いているのは自分自身なので全ての話に共感でき、嫌いなものも好きなものも共通していて感情の機微も全て理解できる、この上無い"推し"だ。
しばらくアクセスしなかった事で客観的にそのツイート群を見た結果、他人としてほんの少しだけ自分のことが好きになり、その感性の人格を応援するために頑張って生きよう、と自信を持つ事ができた。

そんな経緯を踏まえると、改めて自分の感情のログを残す事はとても有意義な事だと思った。小さな承認欲求をきっかけに中学生の頃からブログを始めていて、MMOにのめり込んでいた頃も別の名義で毎日ブログを書いていたので特に目的もないままいつしか習慣となっていたが、単純に文字で自己表現をする事以上に、自分の人生においても重要な意味がある事かもしれないと気付かされた。
わたしはただでさえ記憶力が優れず、その上で過去の思い出や自分自身に興味が無いためにすぐに忘れてしまう人間だ。年単位で見れば人格の連続性すら怪しく、昔の自分の発言にまるで身に覚えがなく他人の発言のように感じる時も多々ある。

だからこそ、他人とコミュニティを成して暮らす中で没個性的に振る舞うわたしという人間にとっては、ネット上に記録された連続性のある「人に見せられない感情のログ」こそが自分の核であり、少なくとも自分が数年は生きてきた人間である事を証明しているような気がした。

外部に保存されたログを参照する事で、少しだけ自分を取り戻せるのだ。

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