見出し画像

エッセイ的なもの:サルベージ

先日、ブラウザのブックマーク整理をしていると、偶然わたしが2013年ごろに書いていたブログを見つけた。
ブログ自体は2007年ごろから途切れ途切れで続けていたものの、当時からわたしは人間関係リセット症候群に罹っていたので、不定期的に名前と場所を変え旧名のブログは記事データをハードディスクに保存して消す癖が付いていた筈だった。

にも関わらずそのブログは上京の忙しさで消し忘れていたのか、あるいは当時の私が黒歴史扱いして開くことすらしなかったのか、理由はどうあれ消されずに残っていた。
慌てて名前とプロフィールを関連性の無いものに変更し、記事を非公開にする作業をしつつ記事を流し読みすると、(その筋の人に怒られるかもしれない表現だが)まだちゃんと真っ当な女らしく振る舞っていた時の文体で日々の出来事や思ったことについて綴られている。社会の荒波に揉まれる前の自分の人格に気恥ずかしさがありつつも、9年前の自分のブログを振り返るのは微笑ましく新鮮な気持ちだった。

昔の人はよくブログを書いていた。昔と言っても、今から10〜15年前の話だ。
現在ブログの代わりにメジャーになったTwitterが日本に出てきたのは2008年だが、2014年ごろまではまだブログという文化が残っていたと思う。当時のインターネットの住民はTwitterでは日々の本当にくだらないちょっとした呟きをして他人と交流をする一方で、日常にイベントがあればブログに記事を書き、更新通知をTwitterにpostするという使い分けをしていた。新しいもの好きやオタクでなければ、Twitterはやっていないもののブログは書いているという人も多かった。今現在ブログを書いてる人だって、ほとんどは当時からコツコツと書き続けている人だろう。

だからわたしのものを含め、その辺りの時代のブログはGoogleで検索すれば山のように見つかる。
多くは上京や進学、就職、流行の廃れなどの理由により2010年代半ばで更新が止まっていて、その時代の人間の生が事細かに記されているのにも関わらず現在に繋がっていないあたりがまるで古文書のようでもある。一風変わった読み物を求めている人にはおすすめのコンテンツだ。
(Twitterと違って日常の記録が人ごとにパーティションで区切られているので連続性・ストーリー性がわかりやすく、現在のnoteなどのコンテンツと違ってバズらせたり主張を通す意図を込める文化が無いためシンプルに読み物として楽しめるのだ)

わたしが「更新が止まっている2010年前後のブログを拾い上げて読む」という半ば不謹慎な趣味を身に付けたのは、3年ほど前のことだった。
とある身体的ハンディキャップを抱えている影響で人より数奇な人生を送っている自覚があるわたしは、孤独感からよく自分と似たような人生を送っている人を探してインターネットを彷徨っていたのだった。
皆恥ずかしがり屋なのか単純に例が少ないのか、探しても探しても見つからなかったものの、やっとの思いで見つけた数件のブログは全ての記事とコメントに隈無く目を通し深く共感した。中には、わたしと似たようなハンディキャップを持ちながらあの東日本大震災で震災孤児になった過程を記しているものまであり、震災をどこか他人事のように感じていたわたしにとっては飾らない言葉の一つ一つに打ちひしがれた。
そういう経験をした結果、不謹慎と思われても仕方がないのは重々承知だがブログを読む体験に替え難い価値を見出してしまったのだ。

もう非公開にしてしまったわたしの9年前のブログも、自画自賛ながら読み物としては十分に面白かった。綴られていた日々の出来事はほとんど忘れてしまっていた事だったし、人生経験も皆無で1日1日がもっと長く貴重なものだったからか、言われた言葉や得られた体験の一つ一つを印象的に捉えて心情を交えて書かれていた。社会に適応するために心を殺して時間を浪費する今のわたしからしてみれば、赤の他人のブログを追うようでもあり、一方でうっすらと脳内に残っている記憶がサルベージされていくのを感じる良い体験でもあった。

あのブログも、他人の読み物としてインターネットの片隅に放っておいた方が良かったんだろうか?当時のわたしのブログの記事と今に至るまでのTwitter、ここや他に書いている複数のnoteの記事を時系列順に読んでいけば、良くも悪くも精神的成長と考え方・メンタリティの変化が感じ取れるだろうし、わたしのように他人のブログに価値を見出す人間にとっては面白いかもしれない。いや、やはり恥ずかしい類のものであるのは違いない。

(続きではないけど関連性のある話)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?