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「英雄伝説 黎の軌跡Ⅱ CRIMSON SiN」クリア感想

※ネタバレ有。

前作の記事↓

はじめに

"軌跡シリーズ"第12作目『英雄伝説 黎の軌跡Ⅱ CRIMSON SiN』をクリアしたので早速レビューを書く。尚、本シリーズは同一の世界にて連続した時間軸で進められる物語であり、とりわけ前作の『英雄伝説 黎の軌跡』は主人公や舞台が共通する作品であるため前作をプレイした方が話の流れを理解しやすい。わたしもシリーズ第1作目『空の軌跡FC』から第11作目『黎の軌跡』までプレイ済みであることを先に記しておく。また、本作はPS4版とPS5版が同時に発売されたが、この記事はPS5版をプレイした上でのレビューとなる。

結論から言うと個人的には賛否両論だ。断章まではとても良いストーリーで、わたしがシリーズの中で好きな『碧の軌跡』や前作『黎の軌跡』に匹敵するような面白さがあった。しかし残念ながらその後のⅢ部はお世辞にも魅力的なストーリーとは言えず、前半までの良さを相殺している。それが賛否両論とする理由だ。とは言え映像などのシナリオ以外の部分や、断章までのシナリオの見せ方の部分など評価できる点は多くある。レビュー記事としてはかなり長くなるだろうが読んで頂ければ幸いだ。

良かった点

親切な解説

イスカ神聖皇国の項目などは初出っぽいのでファンは確認しよう。

本作は軌跡シリーズ初心者にもおすすめできるほど親切に作られている。もちろん、前作『黎の軌跡』の続編なので初心者は前作からプレイした方が良いのは言うまでもないが、過去作の出来事は作中の台詞で説明されていたり、発売前からYouTubeで説明を補完する動画がアップされていたり、用語集には過去作に登場した勢力や事件などが網羅されているなどファンからしてみても気軽に復習出来る程に手厚いサポートだった。特に発売前からYouTubeにアップされていた『CID極秘調査レポート』はルネ・キンケイドという作中の人物が解説するという演出がゲーム内コンテンツのように感じられて、既に知っている内容でも楽しむことができた。


お決まりの流れからの脱却

軌跡シリーズは9年前に発売された『閃の軌跡Ⅰ』以降、ルーチンのようなものが存在し毎章ごとにそれを繰り返すシナリオだった。
閃の軌跡シリーズでは授業→放課後(校内の依頼をこなす)→校内での演習→来週の実習先発表→校外実習→依頼をこなす→悪役の存在が浮き彫りになる→事件が起きる→ボスが出てきて最終的にヴァリマールで解決という流れがあり、このルーチンを繰り返す事が「同じ展開の繰り返し」と揶揄され有志の『ゲームカタログwiki』では軌跡シリーズ作品のうち閃シリーズ4作品だけが良作の判定を受けていないなどプレイヤーからの評価が芳しくなかった。

前作『黎の軌跡』でも多少の展開のバラエティはあったものの根本的にはその流れを汲んでいて、わたし自身も「こういう決まった流れがあった方が簡単に作れるんだろう」と半ば諦め受け入れていた。
しかし本作ではタイムリープや2本同時のストーリー展開によってその停滞が打開されていて、更に片方は地方都市への出張、片方は首都での調査、或いは学園モノ的なストーリーなど非常に物語のバラエティが豊富だったのが新鮮だった。

食パン体当たりはお約束

そしてこの2つの舞台で同時展開するストーリーによってより多くのキャラにスポットライトが当てられるようになったのも良かった点の一つだ。前作では章を重ねるごとにメンバーが増え、終盤になると大所帯での行動になりセリフや活躍の機会が無いキャラクターが多かったが、それを解決した形となる。

このような複数の舞台で同時に展開される群像劇のようなストーリー構成は過去作『零の軌跡・碧の軌跡』と『閃の軌跡Ⅰ・閃の軌跡Ⅱ』や『創の軌跡』のリィン・ロイド・《C》の3人の主人公の視点でもファンとして馴染みがあるが、こういった趣向は「ゼムリア世界」とキャラクターの下地がしっかり出来ていないと成立せず軌跡シリーズならではの魅力と言っても過言ではない。


前作プレイアブルキャラの削除、離脱キャラなど

過去作ではプレイアブルキャラもなんらかの理由付けにより続投するのが一般的だった。特に閃シリーズではそもそもプレイアブルキャラの総数が多かったのもあり、終盤での大人数でゾロゾロと歩きながら敵と対峙するシーンが緊張感に欠けているように見えたり、敵の主要メンバーと因縁が無いキャラクターに見せ場がなかったり、各キャラ一言だけ喋るシーンが多くなったりキャラクターの多さが冗長的に感じた。

しかし本作では前作でプレイアブルとして参加したベルガルド・フィー・リーシャは登場せず、またスウィン、ナーディア、フェリ、リゼット、カトルなど途中で離脱するキャラがかなり多い。
賛否両論あるだろうが、プレイアブルキャラの削除や離脱キャラの続出は開発上の問題やプレイヤー人気と言ったメタ的な都合より物語を優先する姿勢ととれて好印象。今作で続投したキャラについても、「好きなキャラで探索する」のは《お伽の庭城》に集約されていて、使える機会が無いなどというような不満がメインシナリオ中ではなかった。


マップの作り込み

首都イーディスのマップの作り込みが尋常ではない。前作でも昼と夜、各街区を回ってNPCの会話を回収していたが、今作では行ける街区が倍近くに増えたので会話の回収が大変になるという嬉しい悲鳴を上げることとなった。
導力映画、導力ラジオ、ご飯やスイーツ(ファルコム・ランチと呼ぶべきか)などの小ネタも健在で、みっしぃやにがトマトなどのシリーズファンにはお馴染みのネタも散りばめられている。テキストで語られる各国の情勢も含めて、こうしたメインシナリオに関わらない細かい描写は「ゼムリア世界」の魅力を引き立てていて、長年同じ世界観で作品を作り続けている軌跡シリーズならではの良さがあった。

併せて、その首都で展開されるサブクエストも単なるお使いや勧善懲悪ではなく、捻りがあって白黒付け難い考えさせられる内容が多く退屈しなかったのも好印象だった。


迫力満点のムービー

本作で挿入されるムービーのクオリティはかなり高かった。特にカメラワークが秀逸で、数年単位でリリースしている他社作品にも引けを取らないレベルとなっている。
ガウラン・シズナvsカシム・裏解決屋の戦闘シーンも良かったが、個人的に感慨深かったのは学園祭の舞台のシーンだ。実は舞台を披露するイベントや学園祭のイベントは軌跡シリーズ中でも何度かあり、特にシリーズが3Dに移行してからの『閃の軌跡Ⅰ』での学園祭のⅦ組によるライブは状況的にも近いが、そのシーンはモーションキャプチャーによる動きが無かった事やキャラクターが歌うというメタ的に難しそうな性質上、演出が簡素で想像で補完するしか無かった。本作の学園祭イベントはその雪辱を果たしており非常にハイクオリティなムービーとなっている。また近年のRPG作品ではムービーが多すぎてテンポを妨げプレイ上のストレス要素となることも多いが、本作ではそれが無く、ハイクオリティなムービーがここぞというところで使われていたのが良かった。

かわいい


戦闘システム、爽快感と戦略性の両立

本作の戦闘や戦術オーブメント周りのシステムは間違いなく過去最高の仕様と断言できる。雑魚戦においてはキャラクターのクラフトが強化され、体力も低めになった事で爽快感が上がった。新要素、「EXチェイン」はシャードブーストした状態でスタン中の敵にスクラムを発動させて攻撃すると発動するが、発動難易度が低い割に威力が高くエフェクトも派手で、スピード感とスタイリッシュさに重きを置いているのがよくわかる。これらの要素は前作からのSCLMシステムやシャードブーストなどの要素も併せて雑魚戦という作業のストレスを軽減させている。
一方で強化された分「ぬるゲー」にはならず、ボス戦は過去作より難易度が上がっているように感じた。相変わらずヴァンをタンク役にして後ろからアーツを連打しアークフェザーを発動させる戦法は強力だが、ヴァンが力尽きると一気に体勢が崩れたり、敵の全体Sブレイクで全滅しかけると言ったことは頻繁にあった。恐らく、次回作でもっと本気を出した敵がもっと出てくると思うのでそれを楽しみにしたい。

アニエスのホーリーブルームが強い

中盤までのシナリオ

本作のストーリーは全体的に見るとⅢ部で全て帳消しにしているが、中盤まではこの先どうなるんだろう、というワクワク感があった。
特に印象的だったのは断章だ。この章は絆イベントなどを盛り込んだ過去作におけるミシュラムのような所謂水着回なのだが、この南国リゾートがかの《楽園》だった明かされるのは最高に皮肉が効いていたし、カトルの一連のエピソードはとても泣けた。

更に最後の大空洞のBGMはピアノのメロディが目立ち「おぞましさ」よりも「哀しさ・虚しさ」が伝わってくる曲で、その演出もあって章を通して徐々にD∴G教団というリアルとゼムリア史両方の意味を含めて軌跡シリーズの闇の深い歴史をなぞっていく展開が良かった。
そして章のラストのスウィンの前触れの無い裏切りは空の軌跡FCのヨシュアを彷彿とさせ、ナーディアの転びながら涙を流している様は石見舞菜香さんの熱のこもった演技もあって思わず号泣した。『創の軌跡』で登場しファンからも人気が高かったすーなーコンビがまさか引き剥がされるとは思っておらず衝撃の展開だった。

闇深男の子は軌跡シリーズの定番なのだ

全体的に本作のストーリーは過去作と比べるとだいぶ重くショッキングな描写が多い。出血するシーンも多々ある。しかし最近の漫画やアニメ、ゲームの流行に合わせてただ表現を過激にしただけというわけではなく、エステルがヨシュアやレンに、リースがケビンに、支援課がキーアに、Ⅶ組がリィンに、ラピスやユーシスが《C》に、アニエスがヴァンに、というように軌跡シリーズがずっと貫いている困難な状況でも光を見失わず闇の中に手を差し伸べる王道ながら真っ直ぐな想いをちゃんと描いていたのは本作の良い点だ。シナリオには賛否両論あり将来が心配になる部分もあるが、この骨となる部分を失わない限りわたしは軌跡シリーズをプレイし続けるだろう。


悪かった点

シナリオ:キャラクターの死を軽視している

シリーズを通しての死の描写を軽視するファルコムの悪癖が今回も顕れている。本作では味方のキャラが頻繁に命を落とすシーンがあるものの、その度に時間遡行しているので結果的にアルマータの生き残りのおじさんと特殊部隊と半グレのモブ以外誰も死んでいないし大怪我すらしていない。
故にヴァンやアニエス達が窮地に陥っても「時間遡行するから大丈夫なんだろうな」と展開が読めてしまって退屈したし、ヴァンたちが呆気なく命を落としアニエスらが涙を長す描写が使い古されすぎて、後半は緊張感に欠け感情移入出来ず冷めてしまった。

このあとウソになります

また過去作でクロウやミリアムをなど仲間を庇って命を落としプレイヤーの涙を誘ったキャラをはじめ、オズボーン宰相にアルゼイド子爵、オリビエにアンゼリカ、トヴァルなどを蘇らせた前科があったが、今作においてもエースオブソードやディンゴ・ブラッドなど前作のベルガルドを含めると多数のキャラが復活しており、ファルコムのキャラクターが命を落とす描写を軽視している節を改めて確認することになってしまった。

特にディンゴについては前作での衝撃的なシーンやその後の熱い展開を台無しにしており、前作の考察にて閃シリーズを皮肉った冗談で「ディンゴも実は生きてるかも」と言っていたのが実際にそうなってしまったのは心外だった
過去、閃シリーズにおいてわたしはミリアムを推していたために閃の軌跡Ⅲでアルティナを庇って命を落としたシーンに号泣し、その後Ⅳで思念体として登場し当たり前のように会話を交わしその後蘇生されたことが冒涜的で受け入れられなかった経験があったが、今回もそのようなシナリオに違和感が拭えなかった。今に始まった話ではないが、今後もシリーズで命を落とすキャラがいても「どうせ復活するに違いない」と考え感動できなくなってしまうだろう。
ゲネシスがどうとか呪いがどうとか模倣義体がどうとかではなく、命を落としプレイヤーの涙を誘う描写をしたキャラを当たり前のように多数登場させるのは本当にセンスや倫理観を疑わざるを得ない。


シナリオ:「ループもの」としての薄さ

さらにもう一つ、本作はいわゆる「タイムリープ・ループもの」のストーリーとなっているが、その展開の稚拙さが見受けられたのが残念だった。
記憶の引き継ぎはかなり都合が良く、後半では敵側陣営やNPC、サブキャラクターの記憶は「無かったこと」にされているのに対して関係者の多くはほとんどループ前の記憶を保持していて、何度か必ず死んで失敗したあとにそれを元に行動するので実質的にループをしておらず長く経験を積んでいるのと同じになっている。
ループもの魅力である「覚えている人と覚えていない人のすれ違い、自分だけが危機を分かっている状況の焦燥感」や「ループという便利な装置でも得られない掛け替えの無いもの」が描かれていなかったし、所持アイテムやレベルがタイムリープしても引き継いでいるのはメタ的に仕方ないとしても、取り戻したゲネシスがタイムリープしてもそのままなのはご都合主義と言う他ない。

ループしまくることで集まったゲネシス

特に7個目のゲネシスに関してはナーディアがガーデンマスターの隙を突いて奪い、ループ前ギリギリに渡してアニエスにループさせるというゲネシスが持ち越される前提の行動をしてしまっている。百歩譲ってゲネシスが持ち越されるのが超常現象によるものだったとしても、説明無しに登場人物にそれを前提とした行動を取らせるのは物語としてやってはならない事だ。この手法を正当化するのであれば最初から分担して死に戻り前提で集めさせた方が早い。曲がりなりにもゲームを作っている会社が「どうせアイテム持ち越しでループできるから死に戻り前提で行動する」筋書きを描いてしまっているのは非常に残念に思う。
本作のタイムリープは死ぬ描写をしてそれを無かったことにする機能、転ばぬ先の杖、一般人に迷惑をかけずその後のシナリオ展開に差し支えないようにキャラクターの暴走を描写する機能に留まっていて、結果的に衝撃的なシーンを大安売りしてしまっている。


シナリオ:Ⅲ部、共和国の呪い

Ⅲ部は八番目のゲネシスの"侵食"の作用によって凶行に及ぶキャラクターが多数描かれ、その記憶の改竄の矛盾点を指摘し戦う事で事態を解決するという流れをひたすら繰り返してゲネシスを回収するという、既視感の強い展開だ。

やはり共和国の呪いの影響が…

まず、どこからともなく前触れもなくいつの間にか記憶の改竄が行われていて、その影響で凶行に及んでしまうというのは過去作『閃の軌跡Ⅳ』の"帝国の呪い"と似たような仕組みである。"帝国の呪い"とは、エレボニア帝国の歴史上における謀殺や凶行は全て黒のイシュメルガという霊的な人格が唆したり悪意をブーストさせて引き起こされたものとする一連の設定だ。
しかしこの設定に起因する帝国人は元々善良な市民で全て”呪い”が悪いかのようなシナリオに、リィンの鬼の力など閃の軌跡Ⅰから広げてきた伏線が全て”呪い”で片付けられてしまった事や、帝国とクロスベルの全ての地域で”呪い”が人々に干渉し洗脳できる事、役割を規定する仮面などというキャラクターを敵対させるための便利アイテムの存在などがご都合主義と批判されてきた。
その前のクロスベル編やリベール編でも超常現象の描写はあったものの、それとは別に整合性の取れた設定やシナリオ、キャラクターの個々の心情やバックグラウンドの描写がしっかりとあったが為に逆に超常現象の異質さが表現出来ていて、だからこその批判だったというわけだ。

どっちの呪いの被害も受けてしまった可愛そうな人


このように”呪い”の悪い点は人の言動がロジックやトリック、心情描写を放棄して作中の台詞で言う「オカルト」「チート」で全て片付けられ都合良くシナリオが進む部分なのだが、"侵食"も同じように都合よく人の心の隙に入り込んで洗脳、暴走させている。もっと言えば最終的にループによって無かったことにしており都合の良さが悪化している。
そして本作で描かれる一連の事件の黒幕であるディンゴは、前作で死んだキャラなのに"侵食"によって実質的に都合良く生き返っている上、戦闘員ですら無かったのにグレンデルと対を成す存在になっている。《C》の名前との繋がりもこじつけに近い。そもそもご都合主義以前に同じような話を何回もやるのはマンネリ感がある。
本作のⅢ部はプロローグから断章までの2本立てのストーリー展開を始めとしたお決まりの流れを脱却する構成など、前半の良かった部分が全て無くなっており、それに加えて"共和国の呪い・ゲネシスの呪い"とも言うべきご都合主義で既視感の強いシナリオ展開だった事が悪い意味で「いつもの軌跡」になってしまっている。なまじ前作や前々作の《C》ルートのストーリーが良かっただけにこの展開はかなり強い失望感を覚えた。

呪いがあれば一般人でも戦える
ジンやキリカの”人格を保ちながら役割に縛られる”設定はそのまんま閃の軌跡における「仮面」だ。影の国での出来事は全てアーティファクトが取り込み再現したケビンの心象世界内での話だったために、レンの言う”ルール”とはケビンの深層心理に由来するものとして違和感ははなかった。

前作のレビューでも書いた事だが、軌跡シリーズは規模の大きくないスタジオがおよそ1年に1作というスパンでリリースしている作品群なので、スケジュール管理が大変厳しいだろうし他社作品と比べてグラフィックなどの多少のクオリティの低さは許容できる。しかしそんなシリーズが持っている他には無い魅力が「ゼムリア世界」の土台とそこから紡がれる物語で、リベール編・クロスベル編は本当に良い物語だった為に質の低下はとても残念に感じる。


語録/構文

シリーズにおいてテキストが酷い時期が長すぎて指摘する気力すら喪われる。

ガーデンマスターの台詞に他のキャラとの違いを感じなかったため、ライターの方の自虐に見えてしまった。

まとめ

前作『黎の軌跡』は非常に良い作品だったために軌跡シリーズの将来に期待できたが、今作でまた怪しくなってしまった。とは言え、「共和国編」が3作ないし4作の構成であるのは前作の時の社長のメディアでの発言や共和国と対を成す大国の帝国編が5作も続いた事からも想像でき、次回作ではいよいよ"宇宙軍基地"を巡るストーリー展開やシリーズ全体のストーリーの鍵となる"至宝"に関連した大かがりな展開が予想されることからも目が離せないだろう。

次回作も勢揃いになるかも

また、本作は2本立てのシナリオやタイムリープ、豊富なミニゲームなど挑戦的な要素も多く、歴史のあるシリーズであることにあぐらをかいて停滞した作品にしようとしない点は評価したい。尤もそれだけにⅢ部のシナリオが本当に残念だったのだが。
挑戦的要素の芽が成長し、実を結ぶ事を願って「黎の軌跡Ⅲ」を楽しみにしたいと思う。


余談

レンの人格について

断章にてレンの《楽園》関連のエピソードが再び盛り込まれ、軌跡シリーズワースト胸糞エピソードと名高い「星の扉15 楽園の少女」の伏線が回収されることとなった。
「楽園の少女」の元のエピソードについて知らない人は「空の軌跡the3rd PC版」がわかりやすいのでYouTubeなどで探してみてほしい。
(実は大元のPC版からPSP版に移植するにあたってレーティング上マズいためか前半の《楽園》でのシーンがカットされており、逆に先日YouTubeで公式からアップされた「楽園の少女」の動画はカットされた前半のみのシーンで後半部分が無く、さらに問題のイラストが無いために話がわかりにくい。)

作中のエピソードでは4人の人格のうち最後まで生かされたのがクロスで、クロスだけがリーダーで特別である事が描写されているが、その後のシーンで

黒髪の少年(ヨシュア):
「……こんな風になっても  人は生きていられるのか……?」
「…………これでも、生きていると言えるのか……?」
銀髪の青年(レーヴェ):
「……この無数の十字傷クロスこれは自分で付けたものだ。」
「恐らく自分を保つために必要だったのだろう。」
黒髪の少年:
「……それでも、生きたかったのか……」

という台詞と共に身体中十字傷だらけの少女のイラストが表示され、「クロス」は十字の自傷である事を暗に示している。
つまり、大元の「星の扉15 楽園の少女」では、

・「4人が仕事に行ってくれるのでレンは何もしなくてもよかった」→レンが極度のストレスから身を守るために他の人格に代わる事で仕事に従事できていた。

・「他の子は殺したのにクロスだけは生かされている」→多重人格によるストレスからの保護とは別に自傷でもストレスから自身を守っていた。リーダーだったことからも、ストレスから心を守るのにもっとも有効な手立てが自傷だった。

・上記から、多重人格→自傷→レン本人という構造で心を守っていたわけだが、《楽園》での生活が過酷すぎたためにそれでも耐えきれず、ついにはレン本人が"お仕事"に出向くことになり「私じゃない」という言葉を発した。

という筋書きと考察しているのだが、本作「黎の軌跡Ⅱ」では自傷周りの設定が無かったことにされているようで、研修施設で人格を呼び起こすイベントの中でクロスが《楽園》の記憶を封じてレンを守っていた事が明かされる。それも含めて本作で語られるレンの人格に関するエピソードは「クロス」が自傷だとすると今でも自傷癖がないと辻褄が合わない内容が多い。

それと、本作には《破戒》が開けた扉を封じるためにレンが生き残るために殺した4人の人格が応援しに来てくれるシーンがある。
死んだキャラが復活するのはこれに限った話ではないが元の「楽園の少女」のエピソードで扱われる人格たちをかなりライトに描いてしまっていることと、自傷の設定がしれっと無かったことにされているように見えるのが原作破壊のようで個人的にはもやもや感が残った。断章が良いエピソードだったために尚更である。

カトルの性別の話

カトルは前作の時点で公式設定上は男性と明記されているものの、温泉などで明らかに普通の男性では無いかのような描写があり、またアニエスに対してもヴァンに対しても異性として意識しているような場面があったためにカトルの性別はファンの間でも話題になっていた。わたし自身もネットに毒されているので彼の描写を見て「お、ポリコレか?」と思っていたが、今作にて"D∴G教団によって人工的に作られようとしていた天使としての肉体・器"である事が明らかとなった。

わたしは彼が公式設定において男性と明記されているのは"身体の性別がどうであれカトル本人が男性として違和感なく生活しているから"という理由だと考察し、ファルコムなりのポリコレ配慮だと解釈しているが、現実におけるキリスト教の天使も両方の性別の特徴を持っているか或いは性別が無いとされているし、D∴G教団という一種の邪神教の狂気の表現として上手くハマっていて、創作において既存の設定や世界観を捻じ曲げた無理矢理のポリコレ配慮をする作品が少なくない中でこの"落とし所"を作る事が出来ているのはかなり良い印象を持った。

そもそもこの軌跡シリーズを含めJRPGは30年近くの歴史がある上で日本のアニメや漫画の影響を強く受けていて、ガラパゴス的な風土により生み出された日本のオタクが作った日本のオタクのためのジャンルと言っても過言ではない。先のギルティギアシリーズのキャラクター・ブリジットを巡るネット上の騒動でも浮き彫りになった通り、昨今の世界的な風潮に見るポリコレ配慮と相性が悪いのは明らかだ(ここではその是非について主張する意図はない)
その意味で、今創作に携わる人間の中で課題となっているポリコレ配慮について無理矢理にでも対応するわけでもなく、かと言って「うちは関係ない」というスタンスを取るわけでもなく、両立することに挑戦しているのは尊敬に値する。

更に言えば、カトルが自分の身体と背負ってきた業を負い目に感じて居場所を捨てようとするのに対して裏解決屋一行が説得して連れ戻した一連の流れを経た上で、「やっぱりみんなには知られたくなかったなぁ」と恥ずかしがりながら零すのが等身大のカトルらしさを感じてとても良かった。有体に言ってしまえばこういう展開は「みんなに受け入れられて自分らしく居ることができてハッピーエンド」となるのがお決まりだが、それはありきたりすぎてリアリティに欠けるしはっきり言って辟易している。カトルの事は性別が怪しいショタキャラ枠としか思っていなかったが断章のイベントを見て"共和国編"の好きなキャラの一人になった。

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