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有象無象の視線恐怖症

今まで生きてきて色んな人と関わってきたけど、どうにも得意になれない種類の人間がいる。

「目が笑ってない」人たちだ。


正確にいうと、一見人当たりがよさそうで爽やかな感じのタイプの人で、よくよく見ると目が笑ってない、みたいなタイプのことだ。

言い換えれば「偽善者」という言葉になるだろうか。
とにかく私はこの手のジャンルの人間が怖くて仕方が無いのだ。

この手のジャンルの人間がいることに気がついたのは、大学時代である。
そもそも、私にとっての暗黒時代の象徴とも言える大学時代ではあるが、その暗黒たるゆえんは、周りにいた人間の影響と言っても過言ではない。


大学入学後、1年次のクラスでは信じられないことが横行していた。

クラスで浮いている女の子のSNSのアカウントに、男子学生複数人で共有のアカウントから、嫌がらせのメッセージを送って盛り上がっていたり、女子は女子で固まって、そこにいない子の悪口祭りを開催していたり。

特に印象的なエピソードが2つほどある。
定期テスト前にひとりの男子が「ノートを貸して。」と言ってきた。

当時自分の頭の中の辞書に「サボタージュ」という言葉がなかった私は、毎回きちんと授業に出席をして真面目にノートをとっていた。
その男子から声をかけられたときも、特に何も考えることもなく、ノートを貸したのであった。

テスト当日。
驚くべきことにクラスの男子生徒全員が、私のノートのクローンを持っていた。
こちらからすれば「貸して」と言ってきた男子にのみ見せたつもりが、気がつけばみんなの共有情報財産になっていたのだから、おったまげた。
いや、そもそも授業出ろよ。マジ学費高いんだぞ。

もうひとつおったまげたのが、「教科書ちょうだい。」と言ってきた女子だ。

私が通っていた大学では、前期後期で同じ内容の授業を同じ先生が開催することが多かったので、当然教科書も同じものを使うことになる。英語の授業では、ワークも備わった教科書を使っていたので、当然のように書き込みがある。
ちょうど前期が終わった秋口ぐらいの時期。

たまたま履修している授業が被っていた同じクラスの子たちと固まって座っていたのだが、とある女子が突然「教科書ちょうだい。」と言ってきた。
そのときの会話の一部始終は、以下のとおり。

「教科書ちょうだい。」
「え?」
「英語の授業おんなじ先生だよね?教科書ちょうだい。」
「いや、さすがに書き込みあるし・・・汚いよ?」
「え~いいじゃん、そんなの気にしないし~」
「(何いってんだこいつ・・・)いや、それはちょっと・・・」
「え~、半額出すからさあ~」
「・・・は?自分で新しいの買いなよ」
「え~じゃあいいや。同じ授業受けてた同じクラスのやつだれがいる?」
「・・・○○くん、とか」
「(おもむろにスマホを取り出しLINEで通話し始める)
 もしもし?○○くん?◇◇先生の英語の授業の教科書くれない?
 ・・・マジ!?ありがとう~さすがだわ~」
「・・・・・・」


恐ろしい。私はこの時彼女にドン引きしたのは言うまでもない。
正直突っ込みどころが多すぎて、頭のなかは大渋滞・大混戦だった。

このあと私は気分が悪くなり、席を離れた。
ちなみにこれをきっかけにクラスの人たちとも距離を置くようになった。

ただ、勘違いしないでほしいのは、彼女を含め、クラスメイトは皆「いいヤツ」だったということだ。
正確に言えば「表面上は」、だが。

先ほどの彼女はムードメーカーで面白く、一緒にいるグループの中でも中心的人物だったし、徒党を組んで悪口攻撃を仕掛けている男子たちも、浅く関わる分には悪い奴らではなかった。軽いノリで付き合う分には気楽な人間たちであったことには間違いはない。

ただ、あるとき私は気がついた。

目だ。彼らの目は笑っていない。
目と目があっている気がしないのだ。

彼らは、目の奥にある私の本心を見透かしているような視線で見てくる。

話をしていると、じぃっと何だか「値踏み」されているような目で見られている気がしてならなかった。

そのことに気がついてから、私は視線に敏感になった。

結局1年間、大学に入学して様々な人と関わってきたけれど、気がついたことは「この大学ではこういう人たちがマジョリティなんだ」ということだった。

彼ら彼女らの視線を「値踏み」されているような視線に感じたのは
、他でもない、私のことをひとりの人間としてではなく、「利用価値があるかどうか」で見られていたからだったんだなと数年後に気がついた。

クラスメイト以外にもサークルや企業コンペなど様々な活動を通じて、様々な人と触れあってきたけれど、ついぞ本心から話し合える人は現れなかったし、大学2年になる頃には絶望でしかなかった。国立大学への再受験も視野に入れていたくらいには病んでいた。

大学でここまで落ち込んだのには、高校時代の環境も影響している。
私の通っていた高校は、とても自由な校風で、皆頭が良く、お互いを尊重し合いながらもユーモアのある話ができる人ばかりだった。

クラスの委員決めとか班のリーダーを決めるときなんかも自然と決まっているし、皆適材適所で自分の得意なことで協力し合っていた。

こんな環境にいたからか、大学時代は私にとって地獄以外の何物でもなかったのは確かである。

私が通っていた大学も世間的にはメジャーな大学だったが、それでもこの状況なのか・・・と当時はすごく落ち込んだ記憶がある。

とにかくこの大学時代の経験をしてから、人の視線や表情の機微などにはより敏感になり、言葉にしなくても色々と察することができるようになってしまった。良くも悪くも、である。
元々HSPであるのもあると思うが、それにしても視線に敏感になったのは言うまでも無い。

言葉と表情などのボディランゲージが一致している人は、話していて安心する。
逆に言葉は優しいのに、表情や目が笑っていない人と話していると、ダブルバインドになって混乱する。どっちが本心?って。

これは職場に入ってからも結構役に立ってはいるが、やはり苦手なジャンルの人と話していると、どこか息苦しさが出てくるのは相も変わらず。


人間観察力と言えば聞こえはいいが、どのみち気がついたところで消耗するのは私なので、フェアーじゃないなあなんて思いながら日々過ごしている。

ちなみに公務員として働いている今は上記のストレスはだいぶなくなった。
今の職場は本当にいい人たちばかりで、逆に救われることばかりである。

もちろん何百人もいる組織なのでそりゃ目が笑ってない人もいるけど、私にとって大多数の職員は「いい人」だから、大学時代から比べると比べものにならないくらい快適であることは確かである。

会話のレベルも合うし、いい同期と優秀な先輩方に恵まれていると思う今日この頃。

暗黒時代を超えたから見えることもあるんだよ、と大学時代の私に伝えたい。






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