“好き”の証明

「好きな本は何?」の質問に対して「この本を好きな自分が好き」という考えが頭を過ぎる。

それは本に限った話ではない。好きな映画、好きな絵画、好きな音楽にまで及ぶ時がある。

どういうイメージを持たれたいかというのは、私にはかなり重要だった。少なくとも3年くらい前の私にはそう。

「好きな〇〇」は、属する場所をにわかに指し示すことが多い。もちろん本当にその人がそこへ属しているかどうかは分からないし、その人次第ではある。がしかし、多くの人が相手を知るキッカケや手がかりにするのが「好きな〇〇」なのではないだろうか。

正しく相手を知りたいのならそんな本の目次みたいな項目だけでなく、きちんとエピソードを読み込むべきなのだが、時代なのか環境なのか私の周囲にはエピソードまでざっくり掘り下げようとしてくる人もいなかった。故に私は目次を充実させようとしていた。中身は伴っていない目次ばかり考えた。

「これを好きって言ったらカッコよくない?」「ギャップカッコ良い」「いかすー」「ごいすー」 そんなことしか考えていなかった。自分を演出する道具にしか見ていなかったのだ。

「この本(を好きって言う自分はさぞカッコ良く見えるだろうから)好き」

それでいて内容はまあなんとなく、好き?かな。そういうものが私には多く存在している。


「私が思うから私がいる」ではなく「私を見る他者がいるから私がいる」になっているのを感じていた。正直今でもこの考えは私の中から消えたとは言い難い。

私は自分の価値を自分で決めることが出来なかった。だから他者からの評価を気にした。指標がそれしかないと思っていたから、もうずっと気にしていた。審査員の役を常に他者に求めた。

私はーーーこういうキャラなんですけど、そう見えます?いかがですか?


この考えは全てが間違いではない。ではないがしかし、行き過ぎは判断・決断を他者に委託・依存し続けることへと繋がった。

「自分が良いから良い」が言える私は遥か遠く、あるいは奥深くの何処かへ沈んだまま。


「このままでは良くない」「目次ばかり長い、けれど本編が1ページしかない本のような私になってしまう」そう気付いた時から今日まで、ずっと自分という人についてを考えてきた。

その甲斐あってか「私が良いならそれで良い」「法に触れていないのだし問題ない」と言える自分になってきている。



それでも未だに、むしろ逆に考えてしまう。不安になってしまうのだ。

この好きは、私にとって本当に好きなのか否か。

未だに私は“好きな何か”を演出用具としか見ていないのではないかと。

好きの証明は難しい。