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その人にしか見えない景色

 ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んだ。
 この本は、イギリスに20年以上住んでいるブレイディみかこさんのエッセイ集。しかし、エッセイの主人公はブレイディさんではなく、息子さん。小学校までは優秀なキリスト教の私立校に通っていた息子さんが、公立の「元・底辺中学校」へと進学する。中学校での息子の日常を母親目線で綴るエッセイだ。
 
 この本で綴られているエピソードのインパクトは物凄く強い。「人種差別」や「多様性」といった言葉たちが切実に、目の前まで迫ってくる。人種や家庭環境が原因の、いじめや喧嘩などの辛いエピソードもあれば、クリスマス・コンサートでの出来事などの微笑ましいエピソードもある。

 僕はエピソードの内容も大好きだが、この本のある箇所が印象に強く残っている。
 「プールサイドのあちら側とこちら側」という章がある。
 この章では息子さんが市の水泳大会に出場した時のエピソードが綴られている。ブレイディさんが会場に着くと、あることに気付く。プールサイドの「こちら側」には人が密集しており、「あちら側」にはスペースが空いていることに。客席は、「こちら側」の公立校、「あちら側」の私立校、と、くっきり分かれていたのだ。もちろん公立校の方が学校数も人数も多いため「こちら側」は密集する。

 プールサイドのこちら側では、水着姿の中学生たちが肩をこすり合うようにして体をすぼめて立っていた。人間がすずなりになっている様子を、英語で「缶詰のイワシのような」と表現するが、まさにその絵を思い浮かべてしまうような光景だ。
 他方、プールサイドの向こう側はスペースが有り余っているので、腰を回したりしながら準備体操をしている生徒や、優雅に脚を伸ばして座り、談笑している生徒たちもいた。缶詰のイワシになっているこちら側が庶民サイドなら、向こう側はバケーションを楽しむエスタブリッシュメントという感じだ。それが決して比喩ではなく、本当に庶民とエスタブリッシュメントの子供に分離されているのだからアイロニックな笑いの一つも浮かべたくなる。

ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」新潮社 p89-90

 例えば、日本に住む小説家や脚本家が、「イギリスの中学校に通う人物が登場する物語」を考えたとしても、このプールサイドの景色を0から想像することはできないと思う。この描写は、「実際に」イギリスに住んで、「実際に」息子が公立校に通っているからこそ見えた景色なのだと思う。その人生を実際に選んだ人にしか見えない景色を惜しげもなく分けてもらえたような感覚になった。

 最近、一つの人生を選ぶということは、それ以外の人生を選ばないことなんだなあと考えていた。でも、実際にその人生を選んだ人にしか見えない景色があるのだとすれば、僕にもそんな景色があるのかもしれないと思った。

 僕は、イギリスのプールサイドの景色を見ることができない。
 
 でも、自分にしか見えない景色もきっとあると思う。

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