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演劇を映像化するってどういうことだろう?

 私は今まで、自分の演劇作品を映像化したことがない。一応記録としては撮影しておくか、程度だ。そもそも私は、ライフワークとして演劇をやっている。ある程度自分のペースで、一生付き合う自己表現の方法として、演劇を選んだ。細々と。地味に。地道に。そんな言葉が似あうようなやり方で。だから「演劇を映像化する」ということに全く興味がなかった。演劇の「一度きり」のライブ感を残すこと/遠くへ届けることにあまり興味がなかったからだ。

 昔、プロの方に公演を撮ってもらったことがある。ありがたいことにとても好評だった作品で、多くのお客さんがアンケートをびっしり書いてくれていた。そして観ていたその方が「これは残しておいた方がいいから記録用に」と大きなカメラを持って、最終日の上演を撮影しに来てくれたので「じゃあ、撮ってもらおう」となったのだ。客席の後ろの方にカメラを構え、定点で撮影。一番後ろの席のお客さんが見ている景色と似たようなものだ。どんなものかと渡されたDVDを観てみると、まあつまらない。生で見ていた芝居の半分以下しか伝わってこない。暗くて表情が見えないし台詞も聞こえにくい。自分の目で見ていた時はそんなことなかったのに。カメラはいいものだったと思う。普段から演劇の撮影に慣れている方が撮ってくださったのだし。でも、全然、足りない、伝わってこない。

 私はカメラのレンズ越しには伝わってこないものを演劇として好んでいたらしい。役者の些細な表情から伝わる温度、感情の伴った呼吸音、相手との間に流れるピリッとした空気感。こういうものが「ナマモノ」である演劇として大好物なのだが、それらは映像化されたとたんに何倍にも薄まる。透明化する。あれ?どこいった?(逆に言うとそれらが脚本を立体化する際に必要なものなのだと思い知ったが)
照明の変化はほぼナシ、音楽は最初と最後だけ、なんて作品も作っているもんだから、そうなるのも仕方ないのかもしれない。ドラマや映画などの、元から映像化するために作られる作品とは根本も作り方も何もかもが違う。

 あれからもう10年程が過ぎた。今はスマホでもいい動画が撮れる時代だ。それでも私には「演劇を映像化する」ということの魅力があまりわからなかった。記録として撮影しておけば、お仕事の時にちょっと役に立つな、くらいだ。そして2020年。従来の演劇ができない。もしくは大きな賭け事のような状況だ。とてもお客さんに「気軽に観に来てくださいね」なんて言えない。ああ、なんてことだ。とうとう私も「演劇を映像化する」ということに向かい合わなければいけなくなった。

 正直、迷っている。困っている。できないかもしれないとも思う。この場合の「できない」は私の思う「演劇」にできないかもしれないということだ。しかし、やらないという選択肢を選ぶ方が苦しい。自粛期間も含め、自由を奪われている状態の私はストレスマックスである。ああもう困った。困った。でもやってみるしかない。こうなる前から企画して声をかけて準備していたことを、「二年後にまたやりましょうね」なんて流せない。やりたくて企画したんだもの。ワクワクして準備したんだもの。

 演劇って何だろう。どうして演劇じゃなきゃダメなんだろう。そんな問いが無造作に投げられてしまった。そんな斬新な投げ方あるか?おい?
やりたいことに技術が追い付かないだろうことは承知で、失敗することも覚悟して。幾つかの機材を購入して幾つかの技術を勉強して、幾つかの試みを経て、私は「演劇を映像化する」ということに挑戦する。

 まずはいま、10月末に岸田國士『留守』の【朗読劇公演】を行い、動画配信することを目標に動いている。その場しのぎのへなちょこバットを携えた私は、ストレッチして筋トレして、演劇の稽古して、動画の編集を四苦八苦しながら学んで、どうにかこうにか形にしたいと思いながら、めっちゃ困って悩みながら、今このnoteを書いている。

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何色何番 演出 たかつかな

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