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教育勅語を懐古する意図とは?

平成24年度から広島市の新規採用職員向けの研修などで、「教育勅語」の一部が引用されていたというニュースがありました。

[NHK 広島 NEWS WEB 12月12日 18時02分]

戦前、全体主義を補完するかのように教育勅語が果たしてきた役割を考えると、教育勅語を懐古することの危うさを感じずにはいられません。

「勅語」と名のついたこの戦前の権威、「おことば」が日本を良きものにしてきたと本気で思う人がいて、また、それを受け入れることをいまだによしとする人がこの世の中に大勢いるのだとしたら、日本が成熟した民主国家となるにはまだまだ遠い道のりだなと感じます。

親を大切にしたいと思うことも良いでしょう。兄弟・姉妹が仲良くすることも良いでしょう。夫婦仲良くすることも良いでしょう。友を大切にすることももちろん良いと思います。社会のために何か役立ちたいという希望をいだくことももちろん良いことだと思います。

しかし、現代の民主国家で「誰かのために尽くす。国のために尽くす」とは、戦前のように誰かの言いなりになることとは全くちがいます。それは自由で自主的で創造的なものだと思います。すべて個人の自由な意思で、他人の人権を著しく侵さない範囲において個人個人の思うように行動できるのが民主主義なのだと思います。どんな親や家にも忠義を尽くさなければいけないのとは違います。自分のやりたいやり方で自由な発想で家族や友人と付き合ったり、学び、働き、生きていける。それが人権の守られた民主国家なのだと思います。

私たちが学ぶべきことは、社会や自然を理解する方法であり、自分自身をどうコントロールし、他人を尊重しながら生きていくか、そのための基本事項だと思います。科学 (自然科学・社会科学)やその方法論を学び理解することは、世の中のしくみや動きを理解し、自分がどう行動すべきかの方向性を見出だしていくための重要な要素だと感じます。

そして、それは周りの人たちや他国の人たちの人権を尊重しながら生きていくことの合理性を理解することにつながって行くのではないかと思います。

教育勅語を懐古し、教育勅語のような内容を権威や法律のような形で強制しないと自分自身を律しきれない、日本人の良さが失われるなどと考えているのだとしたら、それはずいぶん自分自身や日本人を、そして人間の可能性を過小評価しているように思います。

教育で優先して学ぶべき大切なことは、科学的なものの見方であり、分析力・理解力であり、過去から現在までの人権の歴史と到達点ではないでしょうか?そのような教育をおざなりにして、「教育勅語」を懐古するような動きには私は賛成できません。


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