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母から聞く戦争体験。空襲と機銃掃射の恐怖

祖父や、母、伯父、伯母などから、太平洋戦争当時の体験談を聞くことがありました。

だんだん戦争体験者が減っていき、これからますます戦争の体験談を直接聞く機会は少なくなっていくことでしょう。

戦争を経験したことのない世代が増えること自体は悪いことではありません。しかし、戦争を実際に体験し悲惨な思いをした世代の、戦争を二度と経験したくないという強い思いがだんだん失われて行ってしまうのではないかという心配もあります。

母の実家は埼玉県の行田市です。

太平洋戦争当時、埼玉県内も各地で空襲の被害があったようです。

埼玉県内への初めての空襲は、1942年4月、現在の八潮市と川口市の行われたものだそうです。その後、1944年11月から1945年12月まではB29による散発的な空襲があったようです (金井塚良一・大村進編著、「埼玉県 謎解き散歩」新人物往来社より)。

1945年3月10日の東京大空襲以降、現在のさいたま市、蕨市、狭山市など、県南部を中心に空襲を受け、その後県北部の小都市へも空襲は広がり、「埼玉県史」によれば、県下では40回以上爆撃され、犠牲者は500人以上にのぼりました。

上記「埼玉県 謎解き散歩」によると、1945年8月14日、終戦の前日の晩、県北の熊谷市は、1時間以上にわたって空襲を受け、県下で最大の被害を受けたとのことです。約8000発、約600トンの焼夷弾や爆弾が落とされ、周辺地域を合わせ死者266名、負傷者約3000名に達しました。

母が住んでいた行田市は直接の被害はなかったものの、熊谷市方向の空が真っ赤に染まるのが見えたそうです。

そのころは、爆弾を落とすB29爆撃機だけではなく、小型艦載機の地上への機銃攻撃も県内各地で行われたようです。

母の話では当時飛行機の音が本当に怖かったそうです。低空で飛ぶ艦載機からの機銃攻撃をおそれ、通学中も飛行機の音が聞こえると、すぐに物陰に隠れ、戦後しばらくしても、飛行機の音がすると物陰に隠れたくなったと言っていました。

私が卒業した高校の同窓会誌にも、戦中の記録や回想が掲載されていて、空襲が遠くから見えた様子や、艦載機のグラマンから機銃掃射を受けたときの様子など、戦争当時の日々の危険が生々しく読み取れます。

戦争を実体験した人たちは、爆弾やミサイルの下で人々に何が起こっているのか知っています。戦争をしないという誓いは、そのような体験から生まれてきたものではないのでしょうか?

「反撃能力」と称して軍備を増強したり、「核抑止」と称して核配備を容認したりするような議論は、結局は相手を脅し、相手をビビらせ、それでも戦争になるかならないかは相手次第という側面があると思います。

これだけの軍備を持てば戦争にならないという保証はどこにもありません。向こう見ずな相手なら結局は戦争にはなってしまうということでしょう。

そして「安全保障のため」と称する軍事ブロックはいつでも余計に世界の緊張を高めているようにも見えます。

戦争の準備に力を割くのではなく、どのような軍事ブロックにも属さず、「世界のだれにも戦争をさせない」、「世界の誰とも戦争を起こさない」という不退転の決意と覚悟をもって、協調できる国々や勢力と力を合わせ外交に当たるような、平和的でアグレッシブな政府を私は誇りをもって応援したいです。

「戦う」という勇ましい言葉よりも、ある意味、ずっと確固たる勇気と決意と努力と行動力の必要な決断なのだと思います。

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