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鶴ヶ島の思い出「第1期」

子供の頃過ごした埼玉県鶴ヶ島町 (現 鶴ヶ島市)。2才半ぐらいから高校生まで、この町で過ごしました。

私にとって鶴ヶ島の思い出はあることを境に大きく二つの時期に分けられます。

その思い出を大きく境する出来事は関越自動車道の開通 (1975年) です。いや、正確に言うと関越自動車道の工事が鶴ヶ島で本格的に始まった1973年ころでしょうか。

それまで、家の近くに広がっていた田んぼや畑が一気に無くなり、大工事が始まりました。そして、私の実家も関越道の影響で同じ鶴ヶ島町内ですが引っ越すことになりました。

関越道工事前の鶴ヶ島は私にとって「第1期」の鶴ヶ島です。
「第1期」の鶴ヶ島の思い出は大変牧歌的です。

今思い返しても、本当にこんな鶴ヶ島があったのだろうか、夢の中の世界ではないだろうかと思うこともあります。

数々の思い出の中のいくつかをこの note でも紹介してきましたが、途中で転校してしまった小学校も、私の「第1期」鶴ヶ島の懐かしい思い出を形作っています。そう、「手回しサイレン血まみれ事件」や「鼓笛隊」も今となっては懐かしい思い出です。

この事件のあった古い木造校舎の音楽室からは、晴れた午後、私たちが校庭で体育の授業を受けていると、高学年の先輩たちが歌う大人びた歌 (当時、低・中学年だった私にはそう聞こえました) が聞こえてきました。

良く覚えているのは、「朧月夜」や「河は呼んでいる」。この歌を聞いた私は、高学年はなんて難しい歌を美しく歌うのだろうと、あこがれみたいなものを感じたものです。

「第1期」の鶴ヶ島の思い出は、自然にあふれた田園風景と、木造校舎や音楽室、なんだか牧歌的な光景です。

関越道の工事が始まり、少し駅や住宅街に近いちょっとあか抜けた感じのする小学校に転校になり、私の「第2期」の鶴ヶ島の思い出が始まります。

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