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入間郡。鶴ヶ島。そして武蔵野。

私の育った埼玉県鶴ヶ島町 (現 鶴ヶ島市) は入間 (いるま) 郡に属していましたが、1991年(平成3年)9月1日の市制施行により鶴ヶ島市となり、入間郡より離脱しました。

大学進学とともに埼玉県を離れ、埼玉県になじみのない友人に故郷のことを話し、「入間郡」という地名を見せると、「にんげん、、、ぐん?」と怪訝な顔をされたこともありました。

そもそも町や村が属する「郡」とはなんでしょうか?

日本史で、古代日本における律令制の行政区分として各地に「郡」が設置されたとか、「郡司」が置かれたとか習いましたが、現代における郡とはどう意味があるのでしょうか?

ウィキペディア日本語版「郡」によると、明治以降「郡制」が制定されたり廃止されたりといろいろと紆余曲折あったようですが、第二次世界大戦中の1942年に、内務省告示によって、北海道以外の全ての府県に、府県の出先機関として地方事務所が設置され、事実上、郡役所が復活した形となったとのことです。そして、戦後の1947年施行の地方自治法では、地方事務所・支庁などの都道府県の出先機関は、各都道府県が条例によって設置・廃止する事ができるようになり、郡は地方行政の一単位とされることはなくなりました。

現在の郡は、住所表記や、県が定める広域連合体(広域行政圏)の区割り、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まるとのことです。

明治以降の「郡」には市や区は含まないことから、鶴ヶ島は市制施行とともに入間郡から外れたわけですね。

「入間郡」は7世紀ごろには武蔵国の郡として成立したということですから、伝統のある郡と言えそうです。

私が小中学生の頃は「入間郡鶴ヶ島町」だったことから、入間郡の展覧会や入間郡の記録会みたいなものもあったような気がします。

ついでに、「武蔵野」という地名ですが、「武蔵野」とはどの範囲を含むのでしょうか?私の通った小学校や中学校、高校の校歌の多くには歌詞の中に「むさしの」という言葉が出てきます。

デジタル大辞泉によると、「東京都と埼玉県にまたがる洪積台地。南は多摩川から、北は川越市あたりまで広がる」などとの説明があったり、ウィキペディア日本語版「武蔵野」では、「武蔵野の範囲について明確な定義はない」としつつ、国木田独歩の記述を引用したうえで、「武蔵野の範囲は現在の東京23区西部と北多摩・西多摩、埼玉県川越市以南の中南部、神奈川県川崎市北部のごく一部ということが推測される」と書かれていたりして、これらの説明からすると鶴ヶ島は武蔵野のぎりぎり北の端っこという感じでしょうか。

武蔵野は武蔵野台地 (関東平野にある荒川・多摩川・京浜東北線・入間川に挟まれた台地) の広がる地域という説明もありますが、鶴ヶ島は武蔵野台地の北端から入間川を挟んだ対岸に位置しているため、この説明でも武蔵野の北端の微妙な位置ということになりそうです。

ただ、鶴ヶ島の小・中学校の校歌にも歌われているように、鶴ヶ島の人たちにとって鶴ヶ島は武蔵野というイメージが強いのではないかと思います。私自身も鶴ヶ島は「国木田独歩の描いたような武蔵野の風景のひろがるところ」という強いイメージがあります。

私にとっては子供の頃の実家のまわりに広がる雑木林の情景を思い浮かべる「武蔵野」。なんとなく好きな言葉です。

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