"想定外を想定する" 津波から全教員・生徒が逃げ切った小学校 『The Days After 3.11』 佐藤信一さん full ver.
自然災害という答えのない課題に向き合ったとき、考え込んでしまうことがある。震災はいつでも、どこでも、誰にでも起こりうる中、防災を自分ごと化するにはどうすればいいのだろうか。
私はその度に、「先生」に助けを求めに行く。自身も大震災を経験したが、いつも春の日差しのように暖かな眼差しで、でも真剣に話を聞いてくださる。
福島県浪江町で教員をしている、佐藤信一(さとうしんいち)さんのことだ。震災当時は、生徒と教員全員が無事避難し助かった請戸小学校(以下、請戸小)で、教務主任として勤めていた。列の最後尾で児童を守りながら避難をしていた佐藤さん。地震発生から津波到達まで40分は、あっという間の出来事だったと振り返る。
経験しないと分からないは本当もしれないが、佐藤先生の話を聞けば、簡単に分かったフリをしないで、考え続け行動することが大事だと強く思う。
"震災"というテーマは、どうしても心がずんと重くなることもある。
しかし佐藤さんが喋り出すと、まるで穏やかな波が広がるようで、じんわりの胸の中が熱くなっていくようだ。(決してどちらがいい、という話ではなくて。)
だからこそ私は、目を背けたくなるような記憶だけではなく、助かった人の視点から、この地で震災がどのような出来事だったのか。そして佐藤さんは自身の経験からどう生きがいを見出したのか、改めて伺いたいと思う。
想定外が起こることを想定する。日本に住んでいる限り、どこにいても付き合っていく震災。
ー 佐藤先生が勤めていた請戸小学校は、現在は震災遺構として残っていますね。どんな学校だったのでしょうか。
佐藤:請戸地区という、漁業がとても盛んな地域にありました。
海岸部から200メートルも離れていない場所にあり、全校生徒が約100名と小規模でしたね。子供たちはいつも元気に登校し、地域の人がよく声をかけてくれた、地域密着型の小学校でした。
そして2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生し、津波は請戸小学校を含む地域一帯を飲み込みました。
ー 後ほど当時のことをお伺いします。今当時を振り返って、佐藤先生にとって震災はどういう存在なのでしょうか。
佐藤:想定外の出来事でしたが、"なるべくしてなったことだった"と思っています。
宮城県沖地震が 70-80%の確率で30年以内に出ると、テレビでも随分言っていて。わたしが最初の宮城県沖地震を体験したのは中学校1年生の時でした。あの時も無事逃れましたが、 結局同じようなこと起きるんじゃないかと予想はしてました。
あれほど大きかったのは予想外でしたが、今後またないとは言えないんじゃないかな。今年も石川でも大きな地震ありましたから、しかも元旦に。
いつどこで何が起きても分からない、地震大国と言われる日本では、その備えは必要なんじゃないかなと思います。
ー 未曾有の震災を経験した佐藤先生ですが、3.11前後で、ご自身の価値観は何か変わったのでしょうか。
佐藤:そうですね。テレビに映る阪神大震災や世界の震災を見て、"自然災害は怖い"ってなんとなく思ってはいたんです。
しかし、あれだけ大きな震災を生で体験して。私はうまくすり抜けて生き残ったからこそ、命は大事にしなきゃいけないと感じています。
大きなことはできなくても、自分の経験を活かして周りの役に立てればいいなと思っています。
"やっぱり残された命を大事にしようね"
当時、一緒に勤めた職員といつも話してたことです。自分が話せる機会があれば、ぜひ協力していきたいと思っています。
ー当時、死を間近に感じた状況だったと思います。人はいつかは死んでしまう、人生には終わりがあると実感した中で、何か感じたことはあるのでしょうか。
佐藤:やっぱり身近なこと、目の前の楽しさや充実感を続けていくことが第一なのかなと感じています。
何事もないのが一番いいんですけどね、“天災は忘れたころにやってくる”と言われるように、今後起きないとは絶対言えません。
そのためにも充実した日々を送ったり、小さい幸せを感じながら毎日やりきっていくような意識で、長く続けることが大事かなという気がしますね。
ー震災から学んだことはなんでしょうか。
佐藤:想定外のことが起こることを想定しようってことですね。
学校では計画を立てて、災害に対して訓練をやっています。
これまでの経験や知識から計画を立てていますが、実際は全く想定してなかったことが次々と起きると思っていて。
その計画が本当にいいのか、さらにもっといいものはないのか。そういった意識をもっています。絶対的な正解はないですから。
地域差ありますから、我々が経験したものがどこもそのまま通用するとは思っていません。自分達のいる地域に合わせた防災や減災の意識を持ち、考えていくことが大事なんじゃないかな。
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全員が無事避難。"奇跡の学校"と呼ばれるストーリーには、一つひとつの臨機応変な対応で明暗を分ける。
ー 震災当日、佐藤先生はどこで何をしていましたか。
佐藤:全校生のうち、5年生だけは卒業式の会場準備があったので、彼らと体育館にいました。
揺れが2分近く続きました。物が落ちてこないように、体を揺らせないように、とにかく体を低くして、その場で耐える2分間でした。
ー 揺れが収まった後とった行動とは。
佐藤:校長、教頭の指示が出るまで、それぞれの教室で揺れが収まるまで待っていました。揺れが収まった時点で、通常の地震訓練と同じように、校庭に避難する動きの指示がでましたね。
しかし、地割れが心配なため、校舎の西側にある駐車場に校長が誘導して集まりました。
体育館にいた私は一度職員室に戻り、その後、子どもたちを送り出しました。念の為、教頭と二手に分かれて校舎内全部を点検しました。すでにその時、校長先生の判断で全員が学校から離れていました。
校庭ではなく、町指定の避難場所の大平山に向かう判断に変わり、子どもたちが避難し始めました。
しかし、避難途中の県道で子供たちが渡れないぐらいの車の往来がありました。避難が途中停滞した状況になり、なかなか道を横断できなくて。
なんとか先生方と手分けして子どもたちを横断させたら、今度は生徒の親が子どもの姿を見つけて…。その県道で車をとめて、子どもたちを迎えに行こうとしたらさらに大渋滞になったんです。
そのことを学校に戻り校長に報告したら、とにかく子供たちを先にどんどん山に向かわよういう指示が出ました。
何人かの先生方が、親御さんたちに、町指定の避難場所である体育館に車で向かってくださいと伝え、生徒と親は別行動になりました。
既にもう、生徒たちは山に向かって避難していました。
ーその場で判断する状況下で、当時避難中どのようなことを考えていたか。
佐藤:とりあえず高台に上がらないと!という気持ちです。
津波警報は最初3メートルでしたが、次の警報で5mに上がったんですよ。
波の高さがどんどん上がってきていましたし、津波からの避難は高台と決めていたので大平山に向かいました。
助かることが前提ですが、保護者に生徒をどうやって引き渡そう、どのルートで渡そうなども考えていましたね。
また、大きな余震が続いたため、子供たちがパニックにならないように、その怖さを感じさせないように、と常に考えていました。
そのため、津波がすぐそこまで来ていたことは一切教えませんでした。
足元の津波を見るまでは、正直津波ってのは一切頭になかったんです。
警報は出てるんですけども、いつかは戻れるだろうと、次の日には戻れるぐらいに。しかし、足元まで来ている水を見たときには冷や汗物でした。
目の前に流れてきた屋根が浮いてました。自分たちが歩いてきた田んぼのあぜ道が全部水浸しで、ずっと海まで一面の海原というか、 そういう状況を目の前にしたとき「これは…」と思いました。
ー危機一髪での避難ですね。普段から自然災害を意識していたのでしょうか。
佐藤:地震については、年間スケジュールに訓練を入れて、
・揺れから身を守るとか
・火災が起きたときどういうふうに避難するか
など1年に2回はやっていました。
当時も揺れから身を守ることは、子供たちは机の下にすぐ潜ってくれました。しかし机を持ったまま揺らされて動くぐらい、とにかく異常な揺れだったそうです。廊下の本棚は倒れましたし、先生方も教室にあった大きなモニターテレビを抑えることで精一杯だったと。
まず身を守るとこまではうまくいきました。
校舎から避難しようとした時、予定してたルートが使えない状況でした。プールの水が溢れ返って一体が水浸しになっていたんです。その場その場でどうするかの判断を迫られ、 今回は保健室を通して校庭に出ました。
しかし正直なところ、津波の訓練も学校の計画には入っていましたが、全てをやっていたわけではなかったんです。
校舎から校庭までの避難は訓練でやっていましたが、学校から離れてたところへ避難するのはやっていませんでした。
同じ自然災害でも、津波は意外と頭の中に入っていない。
海から近いけど、大丈夫だろうという感覚で、訓練までは行っていませんでした。本当にいろんなことの重なりで助かったと思います。
生き延びた命は、命を落とした人の分まで。身近なものから、大事な人を守るにはどうすればいいのかを考える。
ー これからは、現在と未来についてお伺いします。今も教員を続けられている理由はなんでしょうか。
佐藤:震災後、浪江は立ち入り禁止区域になったので、学校・地域を離れなきゃいけない状況になり、兼務という形で福島市に勤めました。
正直やめようかなと思ったこともありましたが、兼務先で触れ合った子たちが非常に面白い子たちで。「あー、やっぱり教員って面白いな」と思う経験をさせてもらったんです。そのうち、今度浪江町で学校ができるという話を聞いて、 希望を出しました。
そして希望が通り、浪江に戻れることになったので、自分が経験したことをちょっとでも地元に還元したいなと。
学校での防災教育や道徳にも、自分の経験を活かしています。
授業の講師を頼まれて当時の経験を話すこともあれば、夏休みや土・日に震災遺構(請戸小)にくる団体さん、教育委員会、町の担当者などから声がかかって、現地で説明をしたりしています。
お話する機会を与えてもらったときは、できる限り協力したいという気持ちです。
私の出身は浪江町ではありませんが、これから人がどんどんどん戻ってくる浪江町に、少しでも貢献できれば嬉しいなという想いで教員を続けています。
ー 原動力や信念があるのですか。
佐藤:たまたま好きな場所で楽しく生活できていますから、 この楽しい生活を守っていく、続けていくために、考え続けていきたいということが一番かな。
家族なり、大事なものを守るということ。身近なものしか守れないですか、それらを守るためにはどうすればいいかなと、意識して生活していきたいです。
一人ひとりがそういう風に思ってくれれば、広まっていくと思っています。
全世界を守るのは、とても難しいですから。
身近な人の身近なところというのが、基本なのかと思います。
ー大震災に対して恨んだことはありますか。
佐藤:うーん。恨んだことはないです。
たまたま親族に亡くなった方はいませんでしたが、当時卒業させた生徒も2人ほど命を落としまったり、ものすごく大きな被害ではあったと思います。
それでも、恨みというのは感じていないんです。
もちろん悲しいことはありましたが、今はどちらかというと、震災がきっかけで生まれた繋がりや出会いを大事にしていて。
あの当時、 夢をもっていたけれど、命を落とした人たちが沢山いると思います。だからこそ、生きたものはそんな人も想いの分まで、生活しないとダメなのかなって思っていて。前向きなものにしたいとは思っているんですね。
しかし、ひどく落ち込むような経験をしたり、今でも海に近づけない人たちもいますから、これは私の一意見として。
ー これから、どんなことをしていきたいですか。
佐藤:今も、震災遺構請戸小学校にたまにお手伝いしに行っています。修学旅行でくる小学生にお話しする機会をもうけたりして、協力できれば嬉しいです。
やっぱりどうしても、現職で学校に勤めてる限りはそういう機会は正直ないんですよ。私も授業中ですから、やっぱり平日は難しくて。今勤めている学校の生徒には、現地で説明はしていますが。
今は難しくても、今後していきたいです。
ー震災を経験してない人が増えている中、どんな言葉を意識して投げかけていますか。
佐藤:請戸小に行けば、津波による被害の大きさを体感してもらえると思います。
自分の身近に何か災害が起きるかもしれない、自分なりの心構えを持ち帰ってもらいたいと話しています。
地域によって災害のタイプも違いますし、地震や津波だけでなくて、火山や川の氾濫とか、いろんな自然災害が身近に起こってきてますから。
自分の身近で起きそうな災害に対しての備えを、もう一度見直してみようっていう意識を持ってほしい。そのようなことを投げかけていますね。
ー 最後に、メッセージや言い残したことはありますか。身近な人を守るために、いかに減災するか。
佐藤:防災はなかなか難しいと思うので、被害を少しでも減らすためには、自分ができることを考えてもらったり、もしくは身近な人と話したりしてほしいです。それぞれの人がそんな意識をもって生活できれば、被害が減っていくのかなと思います。
必ずあの災害は、身近に起きてくると思っていた方が間違いないので。
そのために動きが制限されてはいけないんですけども、意識を持ってることだけでも全然違うということを心に留めてくだされば嬉しいです!
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