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私はファジーネブリスト

アルコールにすこぶる弱く、少量飲んだだけですぐに顔がゆでた蛸のように赤くなってしまう。お酒を飲みはじめて間もない頃は、自分のキャパシティを知らないし、周囲の「飲めば強くなる」という言葉を真に受けて、数え切れないほどの失態を犯してきた。終電の東横線の車内で吐いたり、目がさめたら路上で寝ていたりと枚挙にいとまがない。

ファジーネーブルというカクテルがある。『ファジー』には「桃の皮の産毛」という意味と、もうひとつ、「あいまい」という意味もあるらしく「桃かオレンジかよくわからない味」としてその名が付けられているらしい。確かに、ファジーネーブルはどんな味かと聞かれたら、桃とオレンジ混ぜたみたいな、と答えるのが一番的確だ。

数年前からファジーネーブルを頻繁に飲むようになった。「結局なんの酒か自分でもわからないんです、でも甘くておいしいでしょ」という、いさぎよさがいい。

それに、私のような大柄な男が居酒屋などでファジーネーブルを頼むと空気が和んだりする。誰かが「お前は女子か!」とツッコんでくれれば笑いが起こる。その注文一言で「この人はあまりお酒が強くないのだな」と即座に了解させることもできる。ほろよい半缶で顔が、郵便ポストと同色になってしまう私にとっては非常に都合のいい酒なのだ。

ファジーネブリスト。自分にこんな肩書をつける。いやいや、『ファジーネーブリスト』というふうに「ー(音引き)」がないとおかしいじゃないか、とも考えたが、語感のことを考えると、やはり「ファジーネブリスト」の方が優秀である。

しかしそうすると、語の区切りとして自然なのは「ファジー・ネブリスト」となる。「ファジーと呼ばれるなにかをねぶっている人」という意味にとられても言い訳ができない。それに「ねぶる」という言葉にはどこか下品で卑しい感じがある。敏感な女性からは下ネタだと認識されても仕方がないような、曖昧ないやらしさがある。コンプライアンス違反で責任問題に発展しかねない。

私は「ファジーネブリストという呼称は、ファジーをねぶっている人という誤解を生むのではないか、そのせいで何らかの罪に問われたり周囲から忌み嫌われるのではないか」という不安を、思い切って実家の母親にぶつけてみた。

「もしもし、あのさ、ちょっと相談、ということのほどでもないんやけど」
「そういう人は『ファジーネブラー』って呼ばれてるで」
「え、なに」
「ファジーをねぶっている人はファジーネブラーで、あんたはファジーネブリストや」
「え?」
「梨、送るわ」


なぜ母親が私のマニアックな悩みを完全に掌握しており、それに対するアンサーを即答できたのかはわからない。ただ梨は美味しくいただいた。

ファジーをねぶる人は「ファジーネブラー」と呼ばれている。
ファジーネーブルを頻繁に飲む私は「ファジーネブリスト」だ。

ファジーをねぶる人。桃の皮の産毛をねぶる中年男性の姿を思い浮かべる。桃をねぶっているのではない。彼は産毛をねぶっているのだ。執拗にねぶっていて、こちらの存在には気がついていないようだ。私は気配を消し、忍び足で彼の背後に周り込む。いまだ、と私は彼の背中に飛びつき、同時に右腕を彼の首元に差し込む。次いで右腕を左腕でロックした。完全なスリーパーホールドである。それでもファジーをねぶるのをやめない。私は思い切りの力で彼の頸動脈を絞り上げた。地面に桃が落ちる音がした。それに続くように彼の全身の力が抜けていった。

ファジーネブラーの敗北。
そして、ファジーネブリストの勝利。

かと思われた。

背後から大勢の人間の足音が地響きを伴って伝わってくる。振り返ると遠くの方から武器を手にした一陣が私をめがけて走っている。あの中年男性に仲間がいたとは、盲点であった。

何にせよ、数十秒後には、たったひとりであの大勢のファジーネブラーと激突せねばならない。戦いに勝利するのはどちらなのか、その結末は曖昧にしておく。


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