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有明海で起きた現代の「海戦」とは!?【3/30は三井三池炭鉱閉山の日】後編


前回は、三池炭鉱の経営側と労働者側の対立が深まっていった経緯をざっくりと解説しました。今回は、ついに勃発してしまった海戦の模様をお送りします。

前回

なんとかして労働組合のストライキを破って三池炭鉱の操業を続けたい会社側は、資材と御用組合の人員を力づくで炭鉱へ送り込もうとします。対して労働組合はピケを張り、それを阻止しようとして衝突が起きるという状況になっていました。ピケとは、ピケッティングの略で、就労を阻止するために見張り行為や実力行使を行なうことです。

海上ルートを労組が封鎖 衝突はじまる

炭鉱の入り口は見張られているため、会社側が人員や資材を送り込める唯一の方法が、海上から船で輸送するという方法でした。陸路だと労組に邪魔されますが、海上からだと邪魔を受けずに運び込むことができたのです。

しかし、労働者側もこれを見過ごすはずがありません。海上からの輸送を阻止しようと、5月28日、旧海軍出身者などにから選抜して、海上ピケ隊を編成したのです。両者は一歩も譲らず、相手の対抗策にさらに対抗策を重ねて対峙していました。

そして翌月6月14日、両者はついに激突します。
船を接岸させようとする会社の船の前に、労働組合のピケ船が割って入ったのです。
岸壁には御用組合の人達がいました。彼らは投石したり放水をしたりして労働組合のピケ船を必死で邪魔したものの、ピケ船は4隻あった会社の船のうち、1隻を沖合へ曳航してしまいました。初戦は労働組合側の勝利と言える結果に終わりました。

労組が花火で応戦 海戦の様相呈す

しかしこれで事態は終息しません。
ピケ船は依然として会社側の船への妨害行為を繰り返しており、会社側の船からは投石でピケ船を攻撃していました。そんな小競り合いが続くように見えましたが、同6月29日、再び激しい衝突が起こります。

投石を飛ばしてくる会社側の船に対し、ピケ船がなんと花火を持ち出して応戦したのです。彼らは花火を持ち、会社側の船に対して水平発射をしました。結構過激なことをしますね。やったことある人ならわかると思いますが、ロケット花火が当たるとめちゃめちゃ痛いだけでなく、ちょっと焦げます。

この衝突のようすは見た目にも激しいものに映ったため、マスコミ各社は「三池海戦」と名付けて騒ぎたてました。このときから、「海戦」として世に広まっていきます。

花火に竹やりまで 過激化する海戦

やがて翌7月5日、会社側が戦闘要員として、柔道部員や剣道部員を船に乗せて接岸を強行します。彼らは竹やりを装備し、インファイトでは太刀打ちできない戦闘力でした。
しかし労働組合も負けじと、ピケ船はまたも花火の水平発射で反撃。竹やりで武装した猛者たちも、飛び道具で遠距離から攻撃されてはたまりません。
結果、50人以上もの負傷者が出る騒ぎとなり、マスコミは「第二回三池海戦」と、大きく報道しました。

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そして、その2日後、ついにこの労働争議のなかでもっとも激しい戦いとなる「第三回三池海戦」が勃発します。
会社側の船団が、労働組合の監視の目をかいくぐり、接岸しようとしました。
しかし待ち受けていた17隻ものピケ船団に阻まれ、放水、投石、花火が飛び交う激しい攻防戦となったのです。結果、負傷者の数はいままででもっとも多い200人超え。双方とも大きなダメージを負いました。

こうしたバチバチの関係は時間が経っても全然好転せず、結局は新たに誕生した池田内閣の調停によって解決します。しかし、マスコミ各社が報道した「海戦」のリアルは、当時の人々には強烈な記憶を残しました。

近頃はストライキなどほとんど起きませんが、働き方を考えるときにでも、魂の戦(いくさ)を繰り広げた現代の武士がいたということを、いま一度思い起こしてもらえたら幸いです。

参考資料:

『ニッポン戦後重大事件史』新人物往来社編(新人物往来社)
『不屈と誇り 三池炭鉱労働者』真鍋禎男(社会評論社)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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