見出し画像

カニ観パラダイムシフト

亡父がたまに立派なカニを買ってくることがあった。
勤め先の福利厚生かなにかで、産地直送のカニをお得に購入できる制度があったらしい。
家族の中に特にカニ好きがいたわけではないが、そんなの関係ねえ。ケチンボだった父とって、お買い得チャンスを逃すことは「損失」であり愚かな行為だ。(買わなければお金が減らず一番お得というロジックは通じない)

母はたぶんこんな父の購買活動をあまり良く感じていなかったのだろう。
しかし怒りっぽい父に面と向かって苦言を呈すこともない。
フラストレーションの矛先はカニに向かい、私と弟にしか聞こえないようにカニの悪口を言っていた。

「調理がめんどくさい」「めんどくさい割に食べられる部分が数ない」「ゴミが増える」など、延々と放ち続けられるカニdissリリック。

そのマイナスバイブスを浴び続けた私は、冬になって「かにカニ日帰りエクスプレス」の車内広告なんかを見かけると「ぶっちゃけカニって世間で過大評価されてない?」などと、ひっそりと反カニ派思想を巡らす大人に成長した。

このように、カニ軸で考えるといまいち恵まれない生立ちを過ごした私の価値観に転換をもたらしたのが、とある居酒屋の「カニサラダ」だった。

「カニサラダ」というと、カニ缶(なんならカニかま)が利用されているケースが多いと思うが、その店では、大皿の上にたっぷりの新鮮な野菜と本物のカニがまるごと一杯乗っている。メニュー表に記されたお値段はなんと「時価」。

本来、反カニ派(その上父に似てケチンボ)な私には一生ご縁がないような代物だろう。しかし運命のいたずらなのか、その時同席していた義母の「私がおごるから冥土の土産に食べておきたい」宣言により、ご相伴にあずかることになった。
「時価」にも臆さないとは……これが世間一般のカニに対する熱量の高さか。

ちなみに義母はまだ寿命を意識するような年齢でもなく、持病もない。
「冥土の土産」とは、贅沢の免罪符的にたびたび切られるカードに過ぎない。

さて、運ばれてきたのは朝採れの松葉蟹 from 鳥取。足にはそれを示すタグがついている。
誰も言葉には出さねど「これはとんでもないことになった」という雰囲気が漂い始めた。「カニサラダ」などという、どこか庶民的なニュアンスをまとうメニュー名とのギャップが凄まじい。

その驚きやカニや野菜の美味しさに対する感動に比例する形で、お会計への不安も吊り上がっていく。このような複雑な心境のせいか、その場に居合わせた全員のテンションが異様に高くなり、気がつけば何十分もの間ゲラゲラと笑い続けていた。

結局、気になるお会計は「ちょっといいお店」の相場感に収まるものであり、義母的にも満足感に対して相応な金額だったという事でホッとした。

そしてそれ以降、私のカニに対する価値観(カニ観)はすっかり転換した。
カニを見るたびに家族でゲラゲラと笑い転げた幸せな時間を思い出す。
なるほど、人が何かを好きになる背景には「いい体験」があるんだな。

唐突だけど、ジェーンバーキン本人が使っていた「バーキン」が好きだ。
へんてこなお守りやら鍵やらをじゃらじゃらとぶら下げていて、多分それぞれ思い出の品だったりするんだろう。雑多な印象は「洗練」とは程遠いが、持ち主のパーソナリティやヒストリーが感じられて、最高にクールだと思う。

もしも私がバーキンオーナーになることがあれば、食べ終えたカニのタグをハンドルにラフに取りつけて、あの幸せな時間を持ち歩きたい。
そう思えるぐらいにはカニのことが好きになった次第です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?