見出し画像

ホーチミン「戦争博物館」、プノンペン「虐殺博物館」に子供を連れて行くか

こんにちは。かなり重たい内容ですが、子育て中のベトナム・カンボジア在住者は一度は悩んだことのあるトピックだと思います。

結論から言うと、我が家は
⚫︎ホーチミン「戦争証跡博物館」 → 連れて行った(小4)
⚫︎プノンペン 「トゥールスレン博物館」(S21, 虐殺博物館)→ 連れて行っていない

この違いを最近考えていました。

西洋人は連れて行く、アジア人は躊躇する

プノンペンの虐殺博物館は、西洋人家庭だと小学生も家族で訪れています。大泣きしている子、うずくまっている子、戻している子もいました。
アジア人家庭の場合は、政府関連や国際協力で赴任している家庭だと家族全員で訪れている印象です。

ホーチミン「戦争証跡博物館」

日本人学校の中学校の社会科見学で行く、と聞いたことがあります。また、ホーチミン補習校の文集でも戦争博物館のことを書いていた中学生がいたので、中学生くらいで行くのが深く学ぶには良いのかな、と思いました。

私の場合は、在住時に日本から家族が来た時に一緒に一度行き、カンボジアに引っ越してから子供を連れて一度行きました。初めてホーチミンに行ったのは2004年で、実際博物館に行ったのは2014年くらいでした。躊躇せずに最初の旅行の時に行けば良かったと思ったのでした。

ホーチミンの場合は、在住していると身近に枯葉剤被害者がかなりいる(軽度なものを含めると)ので、子供が小さかったときから「どうしてあの人は足(手、指、など)がないの?」という質問に答えていました。また子供も学校で戦時・戦後の話を聞いていたので、ベトナムの視点寄りとはいえ博物館で全体像を知ったと思います。

プノンペン「トゥールスレン博物館」

こちらは初めてのプノンペン旅行で夫は一人で行き、私は在住時に一人で行きました。子供は連れて行っていません。

トゥールスレンは元々名門高校だったのではないかと思います。Lycee(リセ)の看板もあり、黒板には恐らく殺戮場になる前に書かれたフランス語の文章もありました。

戦争博物館とは残虐度の違いはあるものの(もちろん、ベトナム戦争も残虐ではあったが、トゥールスレンは救いようがない)、ここに連れて行けない1番の理由は、親の自分自身がどうしてカンボジアでこのようなことが起こったか理解できていないからではないか、と思いました。

シェムリアップに来て、アンコール遺跡に通うようになると、遺跡の素晴らしさ、1000年前の文明の高さに感銘を受ける一方で、近現代カンボジアと落差がありすぎて、アンコール陥落から現代までの歴史が空白のような感覚を覚えます。

それを埋めようと東南アジア全体の歴史の本を読んでいるうちに、インドシナの混乱の歴史の最終点のクメールルージュを理解することは避けられないなと思いました。

クメールルージュ関連本

そんな訳で、今更ながらクメールルージュ関連の本を読んでいます。

クメールルージュで生き残り、プノンペンからタイ国境まで歩いて脱出した日本人女性のインタビューと、当時サイゴン駐在だったジャーナリストによる考察が交互に現れるルポです。既に廃刊になりプノンペンCJCCでしか読めないと思っていましたが、ありがたいことにKindle化されていました。

こちらも1970年代にサイゴン駐在とバンコク駐在だったジャーナリストが、ポルポト政権の4年間を様々な視点から解説しています。「ポル・ポト<革命>史」と革命がカッコ書きされているのは、こんなものは革命ではないという筆者からのメッセージなのだと、読んだ今思います。

想像していた「独裁者と熱狂的な民衆」がいた訳ではなかったです。
お粗末だった前政権からの揺り戻し、タイとベトナムの強国に挟まれて元々内紛状態だったこと、ベトナム共産勢力が土台を作っていたこと、サイゴン陥落以来アメリカがインドシナから撤退して、アメリカの軍事力や国際的な関心がインドシナからなくなってしまったこと、など、様々な条件が重なってしまった結果なのだと思います。

とはいえ、その<革命>の内容はあまりに残酷で、ずさんで、読み進めながら茫然とします。カンボジアがお手本にしていた中国さえ引いた<革命>は(武器を提供したら、戦士が字が読めない子供だったなど)、自分の中で何か整理ができたかというと、むしろ疑問が増えてしまったような感もありました。

唯一の救いは、当時のトゥールスレンの所長はポルポト政権崩壊後行方不明でしたが、20年後に所在が明らかになった時には、タイ国境の森の中で国連とNGOのサポートを受けて難民救援活動をしていたとのことでした。洗礼を受けて、敬虔なキリスト教徒になっていたそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?