【回想記】アラフォーで海外語学学校(ベトナム語)に通った話
こんにちは。私は20歳くらいから「留学したい/ワーホリしたい」と心に秘めていて、カナダのワーホリやアイルランドの語学留学について情報を集めていました。しかしなかなか踏み出せず、結局ワーホリ上限の30歳も過ぎ結婚し子供も生まれ、もう外国で生活するチャンスはないな、と諦めました。
その後、予想もしなかった形でベトナムで働き始め、最初の仕事を辞めたときに「今しかない」と思い、ベトナムの大学付属の語学コース(ホーチミン国家大学人文社会科学大学ベトナム学学科)に入りました。
40歳に近づく年齢で、長年の夢であった留学生活を経験しました。この時のクラスメートとの思い出を懐かしみつつ、その経験を綴ろうと思います。
ベトナム語で会話が続くレベルではなかったので、会話は英語です。ベトナム生活はネタの宝庫で、会話のトピックは尽きることなく、意外にもいろいろな年齢や国籍や立場の人と話すことができました。
また、どんな年齢でも物事を始めるのに遅くはないなと、実感した時でもありました。
ちなみに初めての海外生活編はこちらです↓
私、39歳の日本人女性の話
思いつきでふらっと人文大学のオフィスを訪れ、話には聞いていた週5日ベトナム語コースをどうやったら受けられるのか尋ねました。
そこでいきなり「今レベルチェックしますか?」と言われて別室でテストを受け(笑、展開早いベトナムあるある)
「A1とA2(CEFRと同じ)の間くらいのレベルですかね。どっちでもいいですよ。どうせやるならA1から始めたらどうですか?あ、でももうA1のコース始まっちゃってるので、途中から入ってもいいですよ」とのことで、少し割引してもらって、学内ATMでお金を下ろしてその場で学費を支払い、次の日から通い始めたのでした(スピード感)
クラスは私を含めて、国籍の違う三人でした。人数が少なく国籍が多様というのは非常に珍しいことだったそうで、ベトナム在住の友人から羨ましがられました。後に聞いたことですが、コースがスタートした時にはドイツ人1人と韓国人6人の合計7人のクラスだったそうです。韓国人生徒5人が少しずつ辞めていった後に、私が編入したのでした。
クラスメート、49歳のドイツ人女性の話
確かミュンヘンから来たと言っていました(オリバーカーンの話をした記憶があるので)。ドイツで技術職だったそうで、子供はおらず、ご主人と何不自由なく暮らしていていたのですが、突然ご主人が亡くなってしまったそうです(理由は聞きませんでした)
1年くらい何もする気になれなかったそうですが、その後ドイツの家を売り、知っている人がいない世界へ行きたいと思い、地球の裏側のベトナムに来た、と言っていました。既にある程度ベトナムに住んでいて、当時ベトナム人彼氏がいるとのことでした。
「ベトナムって生理用品の品質良くないわよねぇ。あなたどうしてる?あ、私ヨーロッパのタンポン売ってる店見つけたの」と言って、次の日2箱買ってきてくれたり、「ベンタン市場のこれ美味しいの、今日は値切ったわ」と揚げパンをくれたりしました。
*なぜこんなにクラスメートの正確な年齢を覚えているかというと、bao nhiêu tuổi? (あなた何歳?)という質問を早くから練習するからです。ベトナム語では年齢で一人称と二人称が決まるため、相手が年上か年下か分からないと会話ができないのです。今では外国人に配慮し、この質問の練習はしないかもしれません(とはいえ、韓国語もクメール語も同様ですし、人称を決めるためにも今でも練習しているかもしれません)
クラスメート、17歳の韓国人男性の話
やけに若い子もいるなと思っていましたが、聞いてみると17歳とのことでした。非常に熱心に勉強していて、しかもベトナム語の発音は完璧でした。
「私の出身は、神奈川県って東京の隣なんだけど、外国人は神奈川って言ってもわからないから、東京出身って言っちゃってる」というと、彼も「僕も本当は、今ソウル出身って言おうとしたんですよ。でも同じで故郷はソウルの隣なんです」と笑っていました。
「あなたすごいね、ベトナム語読み書きも会話も上手だし、本当優秀だなあ」と伝えると、「僕、優秀じゃないんですよ。韓国の高校を中退したんです」と自分のことを話し始めました。
お父さんが単身でホーチミンで事業をし、お母さんと彼と妹の3人はソウル近郊で暮らしていたそうです。中学の成績は非常に良く、家族や周囲の期待もあって猛勉強し、ソウルの名門高校に入ることができたのだとか。
しかし、勉強だけだった辛い中学時代のモチベーションが華やかな名門高校での生活だったのに、目標の高校に入ってみたら中学と何も変わることはなく、ソウル大学を目指すこと以外が許されない重圧や閉塞感を感じて、一週間で高校に行かなくなってしまったと言っていました。
将来は安泰と言われていた道を外れてしまったショックと、でももう高校には戻りたくないという気持ちで葛藤しているときに、ホーチミンのお父さんが「こっちに来てみたら」と声をかけてくれたそうです。
当時は午前中はびっしり人文大学の授業、午後はBritish Councilの英語の授業を受けて、1年後にはホーチミンのインターナショナルスクールのハイスクールに学年を落として入り、その後アメリカの大学に行く、と目を輝かせていたのが印象深いです。彼は大物になるんじゃないかな、と思いました。
「僕、1日のお小遣いがランチと交通費合わせて10万ドンなんですよ。バスで来てたけどそれも勿体無いから、自転車で通おうかなと思って。で、今日自転車用ヘルメット買ったんです。これどうですか?1区で買うと高いけど、タンビン区だと安いんですよ!しかも更に値切ったんです」
彼も買い物上手でした。
隣のクラスの、リタイヤしたベルギー人男性の話
授業が始まる前や、休み時間は同じクラスの2人と、隣のクラスの60代くらいのベルギー人の男性と4人で廊下でよく話しました。本当に、17歳から65歳くらいまでの東西の老若男女が集う不思議な空間でした。
ブリュッセル出身のベルギー人男性は、「あなたアンコールワット行ったことある?」と私に聞き、いやないです、と答えると「今すぐ行きなさい。一生に一回は見なくてはいけないよ」とのことでした。
これが生まれて始めてアンコールワットを意識した瞬間だったと思います。「え?そんなに近くに世界遺産のアンコールワットがあるの?」とその時思いました。
彼は、既に退職し、1年の半分をベルギーで過ごし、残りの半分(ベルギーが寒い時期)をホーチミンで過ごす、ということでした。本当はシェムリアップ に住んで遺跡三昧の生活をしたいが、シェムリアップのような小さな町に住める自信がないのでホーチミンに住み、その間に5回くらいはシェムリアップに飛んで遺跡を徹底的に見尽くすんだよ、と言っていました。
世界には随分と変わった趣味の人がいるんだなと、その時には思っていました。
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