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その願い事ちょっと待った!

時折、神社の絵馬に書かれた皆々さんの願い事をみることがあります。

むろん、願いを叶えたいからこそ、絵馬にその思いをつづること、というのが一応の正答でしょう。しかし、私にはちょっとした違和感があります。

ぶっちゃけて言うと、日本神道の神様を、例えば、敬虔なユダヤ教徒やイスラム教徒が絶対神を信じるように、八百万の神々を信じているようには思えないのです。外国の知人が多いのですが、アラーを無心に信じているイスラム教徒の人でさえも、酒を飲む人たちもたくさんいます。況や、自由奔放な神々が織りなす日本の宗教風土の中で、絵馬に絶対的な可能性を持って、「この願い!ぜひともかなえておくんなまし」という悲壮すら漂う人って、まずまず少数派だと思うんです。とすると、絵馬に願い事を書く動機ってなんなんでしょう。絵馬を買うのにもお金がかかりますし(笑)

幼き時からの疑問でした。とりあえず、神社に立ち寄ってみたし、願い事を書いてみるかという軽い気持ちで絵馬奉納をしているのかなと思っています。確かに、書くことで、自身が思考していることや望むこと・望まないことがはっきりすると言われていますし、そういう意味では、中世ないしは江戸期辺りまではともあれ、庶民は自分に内在化された願望を抽出したりするという理由でも無意識のうちに絵馬に願い事を書きいれていたのかなとも思ったりもします。

私は一神教を信奉する者ではありませんし、寺社仏閣に行くことは大好きです。しかし、お互いに交わったり、喧嘩したりするような、人間社会の延長上にあるような神々を、とても崇高なものとは思えず、信仰という点となるとユダヤ・キリスト・イスラムといった一神教の人たちの信仰と比べたら、月とすっぽんどころか、5Gのスマホとメール機能無しのガラケーくらいに違いがあります。

それにしても、上に書いた理由が絵馬を書く人たちの心理にあったとしても、絵馬の数って半端ないですよね。たとえば、「〇〇学校に合格しますように!」なんて願い事もよく見かけますが、まあ確かに安心感を得たいのかなということで分からなくもありません。神社(お寺も)は神々が衆生のものたちを導くところではなく、神々をなかだちとして、人間が自分を省察するための場だったのかもしれません。

はい、長い前置きでしたが、「~しますように」という願望の書き方に違和感を覚えています。「~しますように」ということは「~しますように」という状態を永久に望むという意思表明にもなりませんか。このことは最近のスピ系の本でもよく言われていることでもありますが、言葉が波動であり、その波動の周波数によって、現状と呼ばれる世界が現れるとすれば、「~しますように」という願い事の仕方はまずいですよね。「もう、〇〇大学に入って、サークルに入って、彼女もできてウハウハしているんだ」という具合に未来を先取るような形で願い事(もはや願い事とは言いにくいですが)を書くといいと思います。未来の自分が現在にすでに実現していると考えてみるのです。もちろん、無意識の世界で、「いまは〇〇大学にいけてないわい」という意識もあるので、即実現するわけではありませんが、しますように的な願い事よりは、科学的であるとは思います。

実は私は似たようなことを実験的にやってみたところ、やがて未来のことなのに、あたかも実現しているような確信が湧いてきて、実際に願望が実現したことがあるんです。怪しい宗教の話ではありませんが、願い事に関しても工夫されるといいのではと思っています。あっ、ちなみに私は怪しい宗教団体の教祖ではありませんが、お布施、否、ご寄付はいただきたいと思います(笑)

「もうすでに、教祖として多大の寄付を得ている」

「もうすでに、教祖として多大の寄付を得ている」

「もうすでに、教祖として多大の寄付を得ている」

怪しくないですが、いや、怪しいですね(笑)

まあ、そんな具合で絵馬に書く習慣がある方はトライしてみてくださいね!

以上、願い事教教祖でした(違)


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