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ピンクの、メッシュの、ランニングシューズ


最近買ったランニングシューズは一番安いものだったが、5千円もした。くつひもは蛍光の緑色で、他の部分は蛍光ピンク色だった。軽いメッシュの素材で包まれ、安価ながら履き心地はすこぶる上々。店の棚に並んでいたときはかわいいと思って買ったのだが、祖父のくたびれた革靴や、いぼいぼのついた健康サンダルなどと並べて置いてみると「派手すぎたか」というつぶやきが漏れた。いや、この玄関がくすんでいるのだ。わたしの靴はたいてい黒か茶だし、緑色の玄関マットも十年は買い換えていなくて埃が繊維まで入り込んでいるし、壁紙はわたしが生まれる前から張り替えていないし、スリッパたてはほこりまみれ、傘たてにはビニール傘(まちがえて持って帰らないようにご丁寧にひもが結んである!)と骨の折れたじじむさいこうもり傘。
だからせめて、明るい色の靴がひとつくらいあったっていいのだ。本当ならこの前DIANAで見た、あのレース地にオレンジやピンクの花柄の飛んでいる華奢なハイヒールを買う予定だった。でも、あまりに高価なうえにいつもジーパン、パーカーな自分のワードローブとそぐわないのではという気がした。


(新しい靴を履くのは気持ちがいいから、世界はすばらしい。春の空気がおいしいから、世界はすばらしい。靴屋のおじいさんが今日も店先で無駄話をしているから、世界はすばらしい。私の好きなサラダ弁当の店に行列ができている、よしよし。今日も空が青い。八百屋の頭が少し弱そうな兄さんが「いらっしゃいませーーー!」といつも通り声を張り上げている。……だから、だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ)
アンカリングというものがあるらしい。この前の発作のときはこれでよくなって、さほどの恐怖心もなく電車に乗ることができた。今日はどうかな。足が前に進まない。考え続けても、考えるのをやめても、どっちにしても胸のあたりが重い。この前見たサイトには「心臓に心があると思わないこと」と書いてあったけれど、どうしても、この部分がズクズクするのでなにか異変があるような気がしてしまう。考えるのをやめよう、と深呼吸をした。ほとんど雲のない空を見上げてふーと息をはく。よくなった、これでだいじょうぶ!  
と次の瞬間には全身がひやーっと冷えていってしまう。身体の末端が冷たくなって、肩に力が入る。横道にそれてしゃがみこんだ。口角を上げることができない。指が細かく震えて、汗をかいているのに指がたまらなく冷たい。(こういうときは、じっとしていてもだめなんだ。とにかく、怖くても、歩いて、進まないと)時計を見た。お化粧をしながら「予感」していた時間を入れるともう、十五分以上が経っている。(発作の時間は十分程度のはず。だいじょうぶ。もうこんなに時間が経ったんだから、すぐにいつもの私にもどる。だいじょうぶ。)
このあとの道のりを考えた。このまま駅までいき、階段を上がり、ホームへ。電車に乗り込み……
この路線は人の多い電車でもなく、都心の路線に関わらず比較的に清潔だ。ブルーのベルベット地の座席は朝のこの時間なら大半が埋まっているはずだ。車内には、扉付近に立っているリクルートスーツにベージュのトレンチコートを羽織った就活生、カーキのカシャカシャ音がするダウンを着て頭が禿げ上がった男性、二人連れでおしゃべりしている年配の女性、単行本を読む大学生、幼稚園の制服の女の子が二人、手をつないでいる。
さあっと血の気が引いていく。いけない。怖い、と思ってはいけない。この言葉をつぶやくな。未来のことを考えてはいけない。わたしはここにしかいない。わたしはいまここにいることしかできない。別の場所にいた過去のわたし、移動して別なことをするであろうわたしを考えてはいけない。それは、わたしがバラバラになることにつながる。それで、ここにこうして震えているわたしを引き裂いてしまう。ピンクのメッシュのランニングシューズ。かわいいな。アスファルトは古くて色があせて、灰色だ。土が恋しい。なんで東京では川辺に降りることすらできないのかな。きれいな水、山、空、それだけでいいのに。ああ。ピンクの靴に意識を集中して。靴は、ここにある。わたしの目の前に。そっと触れてみる。手のひらを見てみる。ここにある。ここにある。だいじょうぶ。買い物籠を押しながらゆっくりとおばあさんが通り過ぎてゆく。八百屋の店先には原色のレモン、オレンジ、いちご、きゅうりが山盛りになっている。通りを行く人のざわめき。わたしの頭の中は水に浸かったようにシンとしている。本当にここにわたしはいるのだろうか。オレンジはそこにあるのか。ランニングシューズをぎゅっと掴む。わたしがしゃがみこんでいるところだけ、ひゅーっと低い、井戸の底なのではないだろうか。時計をみる。さっきから一分しか経っていなかった。……いや、だいじょうぶだ。なにが? とにかく、だいじょうぶ。だから、なんで? だいじょうぶ。わたしはここにいないじゃないか。だいじょうぶ。だいじょうぶ。うそだ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。目をつむってみた。少し落ち着いた。背中を丸めて、胸に手をあてる。小さな鎖骨が肌の下から盛り上がっている。そこを指で、せわしなくなぞった。ふー、ゆっくり深く、息を吐いて。吸って。胸を開く。ああ、朝だ。空気がおいしい。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。わたしはただの、小さい動物なんだから。ここにいて、存在しているだけでいい。未来も、過去も、使命も、なにも考えなくていい。ひとりで、好きな人と、一緒にいて、ただ生きている。それでなにが悪い? わたしはここにいる。たしかに、これは本物だ。ふーっ。ふーっ。



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