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「いいね」をすると自分の中の何かが減っていく気がしていた。

ご多分に漏れず、いくつかSNSをやっている。

そのほとんどは自己顕示欲を満たすためのものであり、よく考えれば生活にそれほど必要とも思えない。

フォロワーも現実の知り合いばかりでその数も決して多くはない。

これは私自身のことでもあり、こんな駄文を読んでいるあなたのことでもあるだろう。

自己顕示欲を満たすには読者の反応が必要だ。それも共感が不可欠であり、批判などされたらベランダから飛び降りてしまいたいほどアウトプットしたことを後悔する。

布団にうずくまり、枕に口をあてて叫びながら足をバタバタさせる以外の選択肢がなくなる。

つまりこのnoteも読み終わったらスキをして欲しいと思って書いているということに他ならない。

批判などいらない。

せめてバーチャルの世界くらいは優しさに溢れた世界であって欲しいと願う。

このテーマを初投稿にしたのは良かったかもしれない。

私はそんな優しい世界を望んでいると言いながら、他人の作品にリアクションすることがほとんどないという矛盾を抱えていることに気がついたのだ。

いや、正確に言えば気がつきはしてはいた。ただ長いこと無視をしていたのだ。

そう。もう着られなくなってしまって長いことクローゼットの隅に追いやられた洋服のように。

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「与えよ、さらば 与えられん」

聖書の言葉だっただろうか。その通りかもしれない。

そう思えるようになってからは少しずついいねができるようになった。

いいねが共有される場合は、まるで性癖をさらけ出すかのような恥ずかしさもあったが、それでもなんとか続けられた。

しかしそんな想いを踏みにじるような文化があることを知った。

いいねをすることによってされる通知から自分を見て貰おうと、内容など読まずに不特定多数にいいねをばら蒔く行為があることを知ったのだ。

そのいいねには何の気持ちがこもっていない。

自分のいいねもそれと同じだと思われては堪らない。

またいいねを押そうとする指が止まる。

本当だろうか。

本当にそんな風に思われるのが嫌で指が止まったのだろうか。

答えはノーだ。言い訳に過ぎない。

本当は心のどこかで妬みや嫉みがあるのだ。

- こんなの既に知ってた。思ってた。
- これくらいなら自分も描ける
- 自分のほうがもっと上手く説明できる
- これくらいのことで注目を浴びてズルい
- この人が有名になるとその分野の空き枠が一席埋まってしまう気がする
- 自分より優秀だと認めているようで嫌だ

面白いほどたくさんの負の感情が出てくる。

馬鹿馬鹿しい。

どれも自分を保つためには必要な感情ではあるが、いいね一つで何が変わるというのだろうか。

掲題の心の動きの根源はここにあった。

いいねをして相手の評価を上げることは、相対的に自分の評価を下げる気がするのだ。

相手へのいいねがいつの間にか自分へのだめねに変わる。

だから指が止まる。

ちっぽけな自尊心だ。

残念ながらこの考え方の是正方法はまだ見つけられていない。

だから私はそれが見つかるまではいいねをし続けようと思う。そしてそれが見つかったのならば、さらにいいねをし続けるだろう。

あなたもそんな旅を今からはじめてみないだろうか。

遠慮はいらない。

いいねを押してくれて構わない。

押す前と後で何かが変わっただろうか。

きっとあなたを含めたこの世界全体が、優しい世界にほんの少しだけ近づいただけだと私は思う。

大丈夫。あなたは取り残されたりなんかしないのだから。

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