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本当に大切な人を守れるのなら私は薄情でかまわない。
あなたは10億円と母親の命を天秤にかけられたらどちらを選ぶだろうか。
100億円でもいいし父親や配偶者に置き換えてもいい。
私はこんな究極の選択が好きだ。
それは自分の本当の心を教えてくれるからだ。
この答えはどちらでもいい。考える過程にこそ意味がある。
- 対象人物に金額に見合う価値があるか
- 自分にとってどれだけ大事か
- 逆にお金がそんなに大切なのか
- どちらかを選んだ後にどれだけの後悔があるか
これくらいの思考が直ぐにされるだろう。
せっかくなので考えてみて欲しい。
自分の一番大切な人の命と、一生遊んで暮らせるくらいのお金のどちらかを選ぶとしたらどちらを選ぶだろうか。
大切な人の命だと思った人は、次は二番目に大切だと思う人を思い浮かべて比較してみて欲しい。
逆にお金だと思った人は、もらえるお金を1億円に下げて比較してみて欲しい。
答えが変わっただろうか。
同じ答えだという人は、答えが答えが変わるまで試してみて欲しいと思う。
- 親族
- 親友
- 友達
- 同僚
- 同級生
- よく行く店の店員
- 近所の人
- 日本人
- 外国人
- 余命いくばくもない人
- 軽犯罪者
- 殺人犯
など、私にはあなたがどのような順番をつけるかはわからないが、大切だと思う順に並べて欲しい。
例え相手が殺人犯であろうとも、人の命と自分が得られるお金なんて比べられないという人は多いかもしれない。
ここでは結果はあまり関係ない。並べた人の順番が大事となる。
一方でお金を選んだ場合は徐々に金額を下げてみて欲しい。
流石に1円と一番大切な人の命を天秤にかけて1円を選ぶ人はいないと信じたいが、誰までであればいくらで、誰からはいくらでという線引きができただろうか。
結果は自分の心に留めておいて欲しい。
きっと誰に話してもよい結果にはならないから。
いま並べた大切な人の順番が、本当にあなたが心から大事にすべき人の順番であり、その順番と距離を可視化したものを私は心円と呼んでいる
弓道の的のようなものを想像して欲しい。
中心を1とし、中間を5、一番外側を10とした10個の円があるような的だ。
この円の一番中心に自分にとって一番大事な人を配置する。二番目の大事な人は二番目のエリアに配置する。同じくらい大事な人がいれば同じエリアに何人配置してもかまわない。
三番目と呼べる人がいなければ飛ばしてもいいし、10個も円が要らなければ5個でもいい。
そうやって自分の周りの人たちを配置してみると見えてくるものがあると思う。
人に順位づけをするなんてとんでない などという綺麗ごとはいらない。
自分の心と対話をするための大事な練習だ。
配置が終わっただろうか。
これを私は心円と呼んでいる。
私の心円の中心には一人しかいない。
それは私である。
そこからほんの半歩だけずれて一番大切なパートナーがいる。
誤解しないで欲しい。
パートナーの命が助かるなら自分の命など容易く差し出せる。
例えばパートナーか自分のどちらかしか助からない状況でパートナーが私を助けようとしても丁寧にお断りするだろう。
究極の場ではパートナーの希望よりも自分の意志を尊重する。
そう考えると心円の中心は私なのだ。
こうやって心円に配置した人物同士の順列を見直してみて欲しい。
同じ2番目のエリアに入れた人たちは本当に同じくらいだろうかと。
ほんの少しの差があったりはしないかと。
誰かれかまわず心円の中に入れてしまう、それも中心に近づけてしまう癖がある人は生きにくさを感じているかもしれない
いわゆる、人との距離感を計るのが苦手な人のことだ。
毎日これと必死に戦っている人もいるかもしれない。
この文章はそんな人を思い浮かべながら書いている。
自分がそうだという人はせっかくなのでもう少しだけ読み進めてみて欲しい。
もしかしたら、そんな苦しさから抜け出すためのヒントがあるかもしれない。
心円はわかるけれど、現実問題として嫌な奴は近くにいるのだ。
極端な思想を持っていると社会生活を送る上ではハンデとなる。
よくみるスカッと系ドラマの主人公のように立ち振る舞えればいいが、現実はそうはいかない。
心で思った通りの行動をしていたら3日も持たずにクビだったり逮捕されたりという人ばかりだろう。
そんな時は現実的な心円と、自分の心の中にだけしまっておく心円にわけるといいかもしれない。
例えばいけ好かない上司がいたとしよう。
もう心の中では何回も殴っているくらいの相手だ。コンクリート詰めにして東京湾に沈めたりもしているかもしれない。
心円を考えた時にはもちろん圏外、地平の先まで遠くに配置したい相手だったとしても、現実問題目の前に上司はいるし、下手な対応をしたら会社での立ち位置が危ぶまれる。
つまりは仕事上大事にしなければならない相手ということだ。
そんな人間を心の底から大事だと思う必要はない。
そんなことを繰り返していたら心がすぐに疲弊してしまう。
そんなことはわかっているのだ。
だけどうまく処理ができないから困っているのだ。
そんな時は心円とは別に「親円」をつくってみることをおすすめする。
名前はなんでもいい。
「親しいふりをしないと色々危うくなる人間関係の円」くらいの意味合いだ。
つまり上っ面の嘘の円だ。
この親円を用意して「こんな奴、他の環境になったらキレイさっぱり忘れてやるわと思ってるけど、仕事上仕方が無いから丁寧に扱わないといけない」くらいの気持ちで配置すればいい。
重要なのは自分の心をしっかりと守ることだ。
間違っても心円内に配置してはいけない。
円の外側に配置する必要すらもない。
そんな相手にあなたの人生をかける必要はない。
そうやって自分の心に層をつくることで現実と心のバランスを保つのだ。
決して難しいことではない。
誰もが無意識にやっていることだ。
例えばあなたのまわりの恋愛対象者を想像してみて欲しい。
恋愛対象者という円の中心には一番好きな人が配置され、円の淵には、この人だったらギリギリありかなという人が配置されているはずだ。
間違ってもいけ好かない上司なんかは配置されていないだろう。
端から見れば私は薄情なのかもしれないけれど、私から見れば同等の感情を求める人の方が傲慢だと思う。
「俺はおまえのことを親友だと思っているからお前も俺のことを親友だと思え」
背景にもよると思うが、ほとんどの人がこれは傲慢だと感じると信じたい。
しかし実は口には出ないが、多くの人がこれと同じようなことを無意識に相手に求めているのだ。
親友という言葉を他の表現に置き換えてみれば心当たりがあるだろう。
- 旅行でお土産を買ってくる間柄
- 一緒にランチをする間柄
- ここまでぶっちゃけ話ができる相手
- 気兼ねなくLINEでやりとりできる相手
心当たりはないだろうか。
- 自分はお土産を買ってきたのに、相手は買ってこなかった。
- いつもランチに誘うのは自分からだ
などなど。
このように、もしも自分が相手に対して何か自身の想いと同等の見返りを期待しているのであれば、その傲慢さを理解し、直ちに止めた方がいいかもしれない。
それと同時に、相手がどう思われて欲しいと思っているのかを推測するのも止めた方がいいと私は思う。
自分の行動をそれに合わせてしまおうとしてしまうからだ。
これが生きづらさの原因のひとつとなる。
もちろん相手にこう思われたい、こういう仲になりたいからと思って行動するのは自由だし良いことだとは思うが、相手にそれを強要するのは駄目だ。
それは自分がやられたら一番嫌なことのはずなのだ。
互いに自立しているからこそ築ける健全な関係があるのだと思っている。
私の場合、パートナー以外のほとんどの人物は円の外側に配置されている。
圏外の人たちにいちいち順位はつけていないが、大雑把に犯罪者かそうでないか、自分と何か共通点があるかないかくらいには分けているかもしれないがそこまで深く考えていない。
逆に10までの数字がつく人は、親兄弟や親友くらいだ。
友達が少ない人間の典型とも言えるかもしれない。
会社の同僚などは10がつくかどうかギリギリのラインだ。
人付き合いが苦手だということもあり、それくらいの関係性の人からすると私は薄情に映ることが多いようだ。
私は合理的で可能な限り誰も傷つかない選択をすることが多いが、責任の所在が明らかなものに関しては当人が可能な限り頑張るべきだと思っている。
その方が当人は誰にも貸しを作らないし、よりフラットな人間関係のままでいられると思うからだ。
しかしながら一般的にはそうではないらしい。頼ったり頼られたりしながら深い人間関係を育むのだという。
否定はしないしできない。
そうやって実際に親友になるような相手もいるだろう。
ただ、皆が皆それを求めている訳ではないことを理解して欲しい。
そういう過程で作り上げられた信頼関係にも脆さはある。
頼ったり頼られたり、つまり自分が奉仕した分はいつか自分が奉仕を受けられる前提の関係になってしまわぬように気をつけなければならない。
それならばいっそ、お互いに完璧で対等な間柄であり、相手が何かしでかしたとしても「たまにはそういうこともある」と認められる関係の方が清々しい。
いちいち奢ったランチの回数など数えていたくはないのだ。
大切な人をより大切にするために心円のレベルによって心の対応を変えることで自分を守る
一方で私は誰に対しても平等に見える対応をとるため、基本的には優しい人という評価を受けることが多い。
もちろん上っ面だ。
繰り返すが、その方が社会生活上都合が良いからに過ぎない。
誰も傷つかない。
自分も傷つかない。
特別な我慢もしていないがコツはいるかもしれない。
誰かに対してムカつくことやイライラすることはもちろんあるが、そんな人間は心円の中に入れていないので、私の心が傷つくことはない。
環境が変われば縁も切れる。
私の心の世界にはいらない人間なのだ。
こう表現すると多くの人が冷たい人間だと評するかもしれないが、それでいいと思っている。
そう評してくる人間も私の世界には必要ないのだ。
本当に必要だと思う相手は離れようが、たまにしか連絡をとらなかろうが、心円の中心に近いところにいつまでもいる。
本当の意味で優しくできる気持ちの総量は決まっていると私は思う。
そのパワーをどうでもいい相手に分ける必要も余裕もない。
可能な限り心円の中心に近い一番たいせつな人たちに降り注ぎたい。
心を守る具体的な方法はわからないけれど、外面と本心をうまく使い分けられると、今より少しだけ生きやすくなるかもしれない。
生きづらさを感じている人を見ると、ほとんどの人がとても優しく、誰に対しても極力いい顔をし、波風を立てず、その場その場が収まるように終始気をつかっている人に見える。
そういう人たちは、すべての事象をしっかりと自分の心で受け止めて、相手にとって悪く感じられることがないように毎回100パーセントの力で対応をしている。
そんなとてもいい人たちが雑な人たちに囲まれて人生に疲弊しているのはとてももったいない。
それほど器用に立ち回れる力があれば、すべての対応をいちいち心の深いところで行うのではなく、もっと外側で行うことができるはずだ。
もちろんはじめは怖さがつきまとう。
それはきっと適当に対応してしてしまったことによる罪悪感や、その対応で自分に対する評価が落ちたらどうしようと思う恐怖などだ。
その恐怖を払拭するには何度も何度も繰り返して慣れていくしかないだろう。
もう一度心円を確認してみて欲しい。
心を疲弊させるその相手は心円に配置されているだろうか。
その相手から最終的に嫌われたとして何かあなたの心の世界は変化するだろうか。
むしろ、自分が嫌いと思っている相手から好かれる方が面倒くさいのではないだろうか。
その相手が心円に居すわることでないがしろにされしまう他の人物はいないだろうか。
本当にたいせつにしなければいけないのは誰だろうか。
そう心に問いかけてみれば、その相手を心円から追い出す罪悪感が少しは軽くなったりはしないだろうか。
また、致命的な対応でなければ現実の立場が危ぶまれることはないだろう。
なにもわざわざ酷い対応をしろと言っているのではない。
心の深いところを介さないだけで、外面のよいストレスの低い対応をするだけだ。
考え過ぎずに対応する。
それで相手がどう思ったとしてもそれは仕方がないし、コントロールできるものでもない。
そもそも、心の深いところで充分に考えたうえでの対応だったとしてもそれは同じことなのだから。
心円など取っ払った先に本当の幸せや豊かさがあるのかもしれない。
私はこのような手法で自分の世界を狭くして守ることで生きづらさを感じないようにしていますが、心のどこかでは、こんな小難しいことをいちいち考えず、常に心をあけっぴろげにしていても誰からも傷つけられない治安のよい社会になるか、例え攻撃を受けても跳ね返したり柔軟に対処できる強い心を持てたらいいなと思っています。
しかしながらいきなりそんな風にはなれませんし、社会も変化し続けています。
数十年間培ってきた心のあり方を一朝一夕で変えられるものでもありません。
ただ、今なんの手段も講じずにありのままの心を雨風に晒してしまっている人は一旦優しく包み込んであげて回復させてみませんか。
そして少し心に元気が出てきてからでもきっと遅くありません。
しっかりと心に武器と防具を装備させてから、少しずつ成長させてみませんか。
今はその時までゆっくりと心を休め、心円を見つめ直してみてはいかがでしょうか。
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