君たちはどう生きるか
待望の宮崎駿監督最新作である本作、公開日まで全く前情報がないという謎に包まれた映画でした。
本日が公開初日となり、喜び勇んで朝イチから観てきましたが、感想としては正直よくわからないというものでした…。
しかし、よくよく思い出してみると宮崎駿監督の描きたかった事はこうじゃないかという解釈ができてきたので、私なりの考察を書いていこうと思います。あくまで個人の解釈なので公式見解は異なるかもしれません。予めご承知おきください。
※以下より映画のネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。
◾️母を戦火で亡くし、心に痛みを抱える主人公
物語の主人公は空襲による戦火で母を亡くし、その傷が癒えぬまま田舎へ疎開、父の再婚相手と暮らし始めます。しかし主人公はまだ幼い少年であるため、喪失感や環境の変化に気持ちが付いていかず、心に深い痛みを抱えています。その痛みの深さは同級生と喧嘩のあと、石で自分の頭を殴る自傷行為というかたちで明確に描写されます。
この物語の大筋はそんな主人公の心の救済にあるのだと思います。しかしもうひとり救済が必要な人物がいるのです。それは父の再婚相手であり主人公の母の妹であるナツコです。
◾️母になり切れない葛藤を抱えるナツコ
ナツコは初対面の主人公に優しく接し、母としての愛を示そうとします。しかし自身は新たな命を授かっている段階、つまり母という存在になり切れておらず、我が子に接する経験がない状態という事がわかります。
明確な心理描写はなかったものの、ここにナツコの心の葛藤があったのだろうと私は考えます。それらを感じ取れるシーンが劇中にふたつあります。
ひとつ目は出産を控えた身でありながら危険と思える別世界に歩みを進めた事、この行為は主人公の自傷行為とどこか似ています。それを察した主人公は「本当は行きたくなかったんだと思う」と呟いています。痛みや葛藤を抱えた心がどうしようもなくなった時、人は自らを責めるしかなくなるのです。
ふたつ目は別世界の産屋まで助けに来た主人公に言ったセリフ「あなたなんて嫌い」と叫ぶ場面です。一見すると主人公を危険から遠ざけるための嘘にも見えますが、母になり切れない自分への苛立ちを表しているようにもみえます。
母を失った喪失感を埋められない主人公と、母となることに葛藤するナツコ、この二人を繋いでいく役割が物語の中心となった心の世界なのだと思います。
◾️心の世界で示される選択肢
この世界では色々ありましたが、ざっくり解釈すると主人公には三つの選択肢が提示されていると考えられます。
ひとつは番人となって外界を遮断し、自らの世界に閉じこもって心の安らぎを得ること。この世界を作りあげたとされる曽祖父?のお爺さんが現在の番人です。お爺さんの役割は世界の維持と安定であり、外界と接触することはありません。しかし自身の寿命を感じ始め、石との契約から自らの血を引く者を後継者とすべく主人公に働きかけます。
もうひとつは母の思い出と共にあり続ける事。母親は現実世界では既に故人ですが、ヒミ(火巫?)という少女の姿で登場します。主人公の窮地を救ったり、ナツコの元へ導くなどヒミ自身は主人公の導き手として存在しています。現実世界では幼い頃に一年ほど神隠しにあっており、この世界では過去と現在の時間軸が同じである事がわかります。
そして最後がナツコを母として受け入れ、現実世界で前に進む事です。主人公が選択したのはこちらでしたが、導いたのはヒミであったように思います。ヒミの助けを借りてたどり着いた産屋で主人公はナツコに手を伸ばし「母さん…ナツコ母さん!」と叫びます。この瞬間がふたりの未来を決定した瞬間であり、ナツコがお腹の子と主人公の母になる覚悟ができた瞬間でもあると思います。この世界の産屋は浮世の穢れを祓うための禊の場だったのかもしれませんね。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。あくまで個人的な解釈ですが「君たちはどう生きるか」は現実を受け入れ、力強い一歩を踏み出す勇気の物語だと思いました。
それぞれのキャラクターの役割にスポットを当てて解釈をしていくと、より理解が深まりそうですが、それはまた次の機会に。
いやぁ〜映画って本当にいいもんですね。
さよなら
さよなら
さよなら。
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