舞台『魍魎の匣』は言葉の殴り合いだ。
北斗百裂拳みたいな舞台だ。
観劇後、僕の顔面は言葉の拳によってボコボコにされた。
いまだに、作中のセリフひとつひとつが、頭の中で残響としてこだましている。
今日はその正体について、語ってみようと思う。
・最初の懸念
そもそも、『魍魎の匣』は「百鬼夜行」シリーズの一作品である。
著者・京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』より書き継がれ、25年間ずっと、新作を待望視されてきたシリーズだ。
戦後すぐの日本を舞台に、およそ人間業とは思えない奇怪な事件が発生する。
しかし、それは関係者の妄執、執念、思い込み、信念などなどーー人間が抱く心の闇がからみ合っており、それゆえに、構造が見通しづらくなっている。
シリーズの主人公である古書店の主人で、副業として拝み屋を営む中禅寺秋彦は、人びとの心によって団子結びになった糸を、ひとつひとつほぐしていく。
長編だけで9冊、短編集やスピンオフも多数刊行。
現代ミステリを代表するシリーズといっても、なんら過言ではない。
そのなかで、最高傑作の呼び声も高く、アニメや実写映画化などもされた作品が、『魍魎の匣』である。
それがこのたび、舞台化された。
主演は橘ケンチ。EXILEおよび、EXILE THE SECONDのメンバーである。
さらに、舞台系の人気役者を中心に、紫吹淳や西岡德馬など、映画・テレビでも多く見かける俳優が脇を固める。
すばらしい布陣だと思いつつ、僕は舞台化の一報を聞いたとき、原作ファンとしてひとつの懸念を抱いた。
まとまるんかいな。
これである。
そもそも、京極夏彦の小説は長い。とにかく長い。べらぼうに長い。
『魍魎の匣』は文庫にして1060ページもある。
僕もわりと本は読むほうだが、4桁ページの書籍はそうそうお目にかからない。
一般的な長編小説においては、300~600ページくらいが標準的なボリュームだろう。
700ページといわれると、かなり長いな……という印象だ。
ちなみにシリーズの長大化はその後も進み、第5作目の『絡新婦の理』にいたっては、1408ページである。目眩のしそうなページ数だ。
それでも、一気呵成に読ませてしまえるのだから、京極夏彦の文章魔術は、げにおそろしい。
しかし、舞台は事情が異なる。
いくらおもしろくても、6時間とかやるわけにはいかないのだ。
というか、さすがにそれだけの長さは、観るほうも演るほうも疲弊する。
僕はあまり観劇をする習慣はないが、少ない経験から推し量って、だいたいが2,3時間くらいに収まっている。
つまり、それが適切な公演時間ということだ。
どうするんだろう……。
と、様子をうかがっていると、しばらくして、舞台の続報がでた。
そのなかに、公演時間について触れたものもあった。
半日公演も覚悟だな……。
そう思っていた原作ファンは、その知らせに、驚かされる羽目になる。
公演時間:2時間10分。
無理に決まってるだろ。
率直な感想である。
たとえば、だ。
作品において、かならずしも必須ではないエピソードが多く含まれている場合は、そこをがつっと削るという選択も考えられる。
しかし、『魍魎の匣』はそういう性質の作品ではない。
なぜなら作中で、たくさんの事件が発生するからである。
ということで、舞台の内容に入る前に、そもそもの原作『魍魎の匣』はどんなお話なのかを確認する。
そうすれば、僕たちファンが感じた困難さを共有してもらえるはずだ。
・原作『魍魎の匣』は、なにがすごいのか。
以下、『魍魎の匣』のメインプロットを占める4つの事件を紹介する。
・相模湖に端を発する武蔵野連続バラバラ殺人事件
・女学生・柚木加菜子の鉄道での事故(事件?)
・謎の研究所に移送された加菜子の誘拐事件
・霊能者・穢れ封じ御筥様の事件
「百鬼夜行」シリーズは作品にもよるが、複数の事件がパラレルに進むことに特徴がある。
そのそれぞれが、相互に関連するような関連しないような奇妙な相関を見せる。
そして最終的に、複数のプロットが意外な形でひとつに収束していき、事件は奇妙な、そして思いもよらない真相を開示する。
そのことは、作者自体の狙いのようだ。
本人の言葉を引こう。
――『天狗』は四百ページ近いボリュームですが、それでも短編シリーズという扱いなのですか。
京極夏彦 普通、この長さを短編とは言わないんでしょうね。出版社も長編だと謳っていますし。ただ僕の個人的な基準で言うと、これはやっぱり短編ですね。すごく長い短編(笑)。長編の「百鬼夜行シリーズ」は複数のプロットを立体的に組み上げるスタイルで作っているんですが、このシリーズは構造的にシンプルなので、短編ですね。
(「天狗 驕り高ぶる者」https://www.shinchosha.co.jp/book/135353/)
「複数のプロットを立体的に組み上げるスタイル」。
それらが、作品というひとつの巨大な建築物を組み上げる。
いわば、「収束の快感」――これが、「百鬼夜行」シリーズ最大の魅力である。
少なくとも僕は、それを味わうため、超長大な小説をむさぼるように読んできた。
だから、だ。
時間内におさめるために、事件をひとつふたつ削るという手段はとれないはずだ。
極めて緻密な設計で建設されている物語は、柱を1本でも引っこ抜いてしまえば、もろくも崩れ落ちてしまう。
いったいどこを削れば2時間10分になるというのだ……?
そういうわけで僕は、大きな懸念を抱えながら、初日の舞台に向かった。
・舞台『魍魎の匣』の豪腕
いよいよ舞台の話に入っていく前に、基本的なステータスを確認しよう。
僕はこの舞台を2度、観た。
初日夜と、東京公演千秋楽の昼にだ。
まんまとリピーターになっていた。
もうおわかりであろう。
僕がさんざんっぱら語ってきた懸念は、見事に解消されていた。
原作を読んだときと、勝るとも劣らぬほど深く深く感動した。
そして、脚本家と演出の神業としかいいようがない仕事に、畏敬の念を抱いた。
では、いかにして、1060ページの超大作を2時間ちょっとの物語に落とし込むことができたのか?
方法論は、あっけないくらいにシンプルだ。
物語のテンポを限界まで高める。
これである。
コアアイデアは、これだけである。
そのまま舞台化しては、どう考えても尺が足りない。
削るにしても、複数の事件が収束する快感を再現するためには、エピソードをまるごと取ってしまうわけにはいかない。
ならば、尺が足りるように、物語を加速させてしまえばいいのだ。
なんという豪腕。なんという掟破り。
いや、僕が知らないだけで、それは舞台ならではのソリューションなのかもしれない。
なんなら、2シーン同時に流してしまうのもアリだ。
しかし、この解決法は、あるセクションに多大な負担をかける。
そう、役者たちである。
戦後すぐということもあって、ただでさえ難解なセリフまわしを、およそ人間とは思えないスピード感で、けれども、あくまで人として演ずる。
多大な情報量を、観客が混乱しないように伝達する。
なんという無茶ぶりだろうか。
しかし、それを完璧に成し遂げたすべての役者に、僕は惜しみない賞賛と、全力の尊敬を送りたい。役者さんって、マジすごいんですね……。
そうやってつくられた舞台は、役者同士がとんでもないセリフ量で殴り合う言葉の喧嘩――闘争である。
それについていく観客も、ジェットコースターから振り落とされないよう、集中力を総動員してくらいつく。
しだいに僕たちは、舞台『魍魎の匣』という巨大な匣にとりこまれていく。
そういえば、「劇場」という建物もまた、匣であった。
幕が下りたあとも、その感覚は容易に解けてくれない。
すばらしい観劇経験だ。
そもそも考えてみれば、『魍魎の匣』という作品もまた、「言葉」の力を信じた小説だ。
拝み屋で、シリーズ通しての探偵役である中禅寺秋彦は、一般のミステリ作品とは、やや違った方法で事件の幕を引く。
拝み屋として、言葉を駆使して、人びとの迷妄を破るのだ。
つまり、言葉によって、人びとが抱える闇に妖怪という名前を与える。
名を与えることで、彼らの形をはっきりさせる。
そしてその後、妖怪を祓う。
これが、彼の探偵術「憑き物落とし」である。
『魍魎の匣』の最終盤でも、中禅寺秋彦は己の言葉を、「呪い」といい、科学では扱えない自分の唯一の「武器」だという。
考えてみれば、舞台『魍魎の匣』もたくさんの血生臭い事件を扱いながらも、そのほとんどを直接描写しない。
すべて、言葉による情報があるのみだ。
けれど、僕たちは不可解な事件におびえ、あまりにあんまりな結末に慄然とする。
それは、すべて役者たちが吐く言葉によってのみ、構成される。言葉の力である。
そういう意味でも、この舞台は、原作の魂を正しく継承した作品だと思った。
・最後に
7月4日から7月7日まで、今度は神戸にて公演があるようだ。
まことに不思議な縁というしかないが、ちょうどそのとき、僕は神戸にいる。
推しである水樹奈々のライブがあるからだ。
そういえば、彼女もまた、言葉のプロであった。
ライブは夜からだ。昼公演は参加できる。
もういちど、あの匣に囚われてみるのも、いいかもしれない。
最高の舞台でした。
(終わり)
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