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私たちを繋ぐ、乾杯の記憶

私には2歳差の弟がいる。
幼い頃はよく喧嘩をしたもので、その度に私は「生意気な弟〜!」とプンスカしていた。

でも、心根がやさしいことも知っている。
私が仲間外れにあって一人になってしまったとき、いつも最後まで側にいてくれたのは弟だった。

またある時は、新聞のテレビ欄で「◯◯、決死の挑戦!」と大好きな芸能人の名前が報じられているのを見て「ねぇちゃん、変なこと書いちょる…」と涙目で私にすがってきたこともあった。
※決死… 死をも覚悟して事に当たること

「死」という字に驚いて不安になってしまったんだろうな。そんな、いじらしいところもある弟なのだ。

✳︎

私が中学生になった頃から、両親はよく喧嘩をするようになった。
それに伴い弟は家であまり喋らなくなった。笑わなくなった。
何か話しかけても「ん」の一言で会話が終わる。

私は家族のアルバムを見るのが好きで、よく押し入れから引っ張り出してはパラパラとめくり思い出にふけっていたのだけど、昔の弟はこんなに屈託ない笑顔だったんだなぁと、生意気ささえ懐かしくなってしまっていた。

はじめは両成敗の言い争いのようだった夫婦喧嘩は、次第に父が母に暴力をふるうようになっていった。
私たちに見えないように別室へ母を連れて行き、私がついて行こうとすると「来るな」と怒鳴られた。
見えなくたって音で分かる。母が暴力をふるわれていると。
その度に弟は無言で壁を「ドン!」と叩いて抗議した。

いつだったか、「お父さんは女の人に手をあげたりするような人じゃないけんな」と笑って言っていた母の顔が脳裏をかすめて悔し涙がにじむ。
今にもドアを開けて「やめて!」と叫びたかった。できなかった。

「早く離婚したらいいのに」
そう私は思っていた。

ある日、母は私と二人きりのときに「話があるの」と切り出した。
お父さんと離婚しようかと思っている、と告げられた。驚かなかった。

離婚したら悲しい?と尋ねられ、
「お母さんが悲しいんでいるのを見る方がいやだから、早く離婚してほしいと思ってる」と私が伝えると母は少しほっとしたような顔をしていた。

「◯◯(弟)はなんて言うかな…」
そう溢す母は、少し不安そうな表情で。
弟に打ち明けるのは、まだ少し時間が要るようだった。

ある朝、また両親の喧嘩で家の空気が荒れていた。
その日は平日で、私も弟も学校へ行かなければならなかった。

はやく終わってくれないかなぁ…
エスカレートする喧嘩に辟易している私の横で、弟は積み重なったものが弾けるように感情を爆発させた。

「どうせなんもいいことない!」

そう吐き捨てて、弟は外へ飛び出した(学校へ行った)
玄関にバタンと大きな音が響く。

閉じた無言のドアの向こうから、弟の絶望が滲んで伝わってきた。
私はドアを見つめたまま、何もできずに立ち尽くすことしかできなかった。

「どうせなんもいいことない!」
学校へ行っても、何をしていても、その言葉が一日中頭の中をぐるぐると回る。
あのとき私はどうすべきだったんだろう。
弟にそう吐き捨てさせてしまうほどの弟の胸の内を思うと胸が痛かった。

私は両親に早く離婚してほしいと思っているけれど、弟は多分違うのだろう。
まだ、心のどこかでもう一度昔のように仲のいい家族になれることを、諦めきれずにいる。そんな気がした。

弟が飛び出した(学校へ行った)あとに母は
「どうして、あんたと弟でこんなに違うんだろう」
と溢していたけれど、違って当たり前だ。私と弟は別の人間なのだから。
同じ親に育てられたからって、同じ思考や性格になるわけじゃない。

もしかするとそれは、母にとっては都合の良くないことなのかもしれない。
私は、大人から見れば手のかからないラクな子どもなんだろうか。
勉強もしなさいと言われる前にするし、家の手伝いもまぁまぁする、反抗期らしい反抗期もない。
ただ、少なくともこれは誰かの顔色を伺ってそうしているのではなく、「お姉ちゃんだから」と気負っているわけでもなく、これが私の自然体だった。

昔からそうだ。私にはいわゆる「長男長女コンプレックス」のような、お姉ちゃんだから頑張らなきゃというプレッシャーや、弟に対する嫉妬の記憶がない。
両親の育て方の影響なのか、自分の性格によるものなのか判別はつかないけれど。
多分私は、良くも悪くも鈍感なのだ。
そして弟の心は、おそらく私の何十倍も繊細なのだろう。

離婚は、弟が高校を卒業してから。そう話し合いで決まった。
しかし両親の限界は予定よりも早く訪れてしまい、私が高校3年生のとき、つまり弟が高校1年生のときに離婚が成立してしまった。

弟は、「どうして」と裏切られたような気持ちだっただろうか。
いよいよ家族がバラバラになってしまうことが、悲しかったのだろうか。顔を覆って、静かに嗚咽していた。
こんなふうに泣く弟を見るのは初めてで胸をぎゅっと締め付けられたけれど、私はその背中を、ただ見つめることしかできなかった。
繊細な弟の心が壊れてしまうんじゃないかと怖くなって。一瞬、抱きしめたいと思った。でも自分にそんな資格があるとは思えなくて、やめた。

私は母についていくと訴えたけれど、金銭的な理由から父のもとに居た方がいいと母に説得された。
それでも母についていきたいと懇願したものの、最終的には私たちの親権は、父親のものとなった。

「お父さんは自分で決めたことはちゃんとする人やけん」という母の言葉の通り、父は一通りの家事をこなした。私も、洗濯や料理など手伝えることは手伝った。この時も、「お姉ちゃんだから」というような気負いは特に無かったように思う。
離婚後も、母は時々うちを訪ねてお惣菜やりんごを持たせてくれた。離婚後もこうして会うことができるのは救いだったし、父も「離婚してもお母さんはお母さん」という考えだったので特に何も言わなかった。

そんな生活もわずか数ヶ月で、高校3年生だった私は卒業を迎える。
地元を遠く離れて、念願の一人暮らしが始まるのだ。

弟を残して行くことが、少し気がかりだった。
弟を置いて自分だけ父から逃げるようで、申し訳なかった。
それでもやっぱり、見知らぬ土地での真新しい生活に私は浮かれていたのだけど…。

母と私がいなくなってから何年もの間、父と弟は二人(と猫一ぴき)でどんな生活を送っていたのだろう。

弟と連絡を取るのは、弟の誕生日と大きな地震や災害が起こったときくらいだった。
いずれも私からで、弟から何か連絡してくることはほぼない。
もともとそんなに仲良しきょうだいだったわけでもないし、こんなもんかなと思う。

そんな弟からある日、突然の連絡があった。
何事かと思ったら、結婚式の招待状を送りたいから住所を教えてほしいとのことだった。

弟が、結婚。ついにこの時がきたのか。

長いことお付き合いしている彼女がいるということは母から聞いて知っていた。その彼女と、ついに結婚するそうだ。

うれしかった。
「どうせなんもいいことない!」と言っていたあの弟が。
生涯をともにしたいと思える人を見つけたことが。自分たちの家庭を築こうとしていることが。

おめでとうを伝えたい。
結婚式、参加したいに決まってる。

でも、不安だった。
故郷へは、もう7年も帰っていない。初孫の顔さえ、写真でしか両親に見せられていない。
帰っていない理由は他でもない、お金がなかったからだ。
地元である大分を離れて大阪へ来たときは「またいつでも帰れる」と思っていたんだ。まさかこんなに何年も帰れなくなるなんて…。

当時私たち夫婦には貯金もなく、毎月ギリギリで生活していた。さぁ、どうしよう。
帰省すらままならないのに、結婚式となるとご祝儀や着るものなどでさらにお金が必要になる。

実は結婚式に呼ばれるということ自体がほぼ初めてだったため、何もかも一から揃えなければならなかった。
自分たち自身も式を挙げておらず、今時の結婚式のマナーがまるで分からない。実の姉という立場であれば、きっと特別細かいマナーがあるに違いない。
弟に、恥をかかせるわけにはいかない。

さらには当時、私のお腹には赤ちゃんがいた。
無事に生まれれば、0歳児を抱えての帰省・参列となる。

不安な要素はいくらでもあった。
それでも、それ以上に「弟を祝いたい」「結婚式に行きたい」「家族に会いたい」という気持ちが勝っていた。
「いつか」と言いながら何年もの時が過ぎてしまったんだ。この機会を逃したら、次はいつ会えるか分からない。

大丈夫、まだ結婚式まで時間はある。
少しずつ、少しずつ、出来るところから準備を進めていこう。
招待状の「参加」にマルをして、ポストへ投函した。

✳︎

ある日のこと、母から電話があった。
弟が、泣いているらしい。「家族写真がどこにもない」と。
家族写真というのは、私たちの実家であるアパートの一室に飾ってあった写真のことだ。額縁に入った、大きな写真。
私の11歳だか12歳だかの誕生日に家族で潮干狩りに行って撮った、わが家で唯一の家族写真のことだった。
それが、どこにも見たらないというのだ。

そして、実家で長年一緒に暮していた猫のチビが、危篤らしかった。
チビを見送る棺の中にその家族写真を入れようと思ったら、どこにもなくて動揺して泣いていると。ひと(私)なら何か知ってるかもしれない… そう思って連絡をくれたのだ。

あの写真を棺に入れようと思ったことも、それが見つからなくて泣いてしまうところも、弟らしいなと思った。あぁ、そういう家族を大切にするところ、変わってないんだなぁって。

私が大分を発つ前、アルバムの中からお気に入りの写真をいくつか持ち出していた。その中には、その家族写真もある。
実家に飾ってある大きいサイズではなく、普通サイズの写真だけれど。

弟にとっても、あの写真は特別だったんだ。
そりゃそうだよね、私たちが知るかぎり唯一の家族写真なんだもん。勝手に持ち出してしまってごめん。
でも、実家に飾ってあった方の行方はわからない。どこへいってしまったんだろう…。
父が、どこかへしまっているんだろうか。それとも…

チビの棺に入れる写真は、私の手元にある写真をスマホで撮って送り、それを弟の方で現像してもらうことになった。実物を郵送するには、時間が足りなかったのだ。

その数日後、チビがお空へ旅立ったと知らせがあった。写真は、間に合ったらしい。

チビ、最期に会えなくてごめんなさい。
お母さんや私が居なくなったあとも、お父さんと弟のそばにいてくれてありがとうね…。

✳︎

そして迎えた平成29年12月8日。弟の結婚式の前日。いよいよ出発の時がきた。
大丈夫かな、大丈夫かなと何度も荷物を確認して家を出る。
電車を乗り継ぎ、私、夫、息子、娘の4人でフェリーに乗り込む。
ワクワクしていた。こんな家族旅行みたいなこと、初めてだったから。
寝床はいちばん安いツーリストファミリーにしておいた。
夜の便で出発して、朝起きる頃には大分に着いているはずだ。
消灯時間がきて、まず夫と息子が先に寝た。
私は娘を寝かしつけてから、そっと寝室を抜け出してロビーに出た。 
他にも何人かが、静かな夜の時間を過ごしている。

私は、ロビーで弟に宛てて手紙を書いた。
そして、その手紙の中に例の家族写真をそっと忍ばせた。
私は長い間持たせてもらってたから、今度は◯◯くんが持ってて、と添えて。

結婚式では、ちょっとしたスピーチを頼まれている。なのに私の喉は絶不調にガラガラであった。
どうかどうか、明日には少しマシになっていますように… そう願いながら私も眠りについた。

翌朝、12月の早朝の大分の空気はキンと澄んでいた。
7年ぶり… いろんなものが懐かしくて、真新しい。

式場のホテルのチェックインまで、母と合流して食事をとった。
実は母は娘の産後に一度、はるばる大分から大阪まで日帰りで会いに来てくれていた。
だから久しぶりとはいえ、1年も経たないうちの再開だ。相変わらず朗らかな母だった。

母は、式には参列させてもらえない。
結婚は家同士がするものなのに、離婚した母が来るのはおかしい、と父が主張したからだ。
その話を聞いた当時は、どうして?という悔しさとともに、まだそんなこと言ってるの?と少し呆れてしまった。
離婚してもお母さんはお母さんだし、お父さんはお父さんだって、言ってたじゃんか。

「あの人には何言っても響かんよ」
どうにか母も参列できないかと思案する私に弟が言ったその一言に、弟が父と過ごした年月のことを思う。
実の息子の結婚式に参列できないなんて、母はどんな気持ちだろう… なんて、花嫁姿を見せることができていない私が言うのもなんだけれど…。
悔しい、悲しい。でもどうすることもできなかった。

✳︎

母に別れを告げて、式場のホテルにチェックインする。
息子と娘を着替えさせ、自分の準備にとりかかる。
この1年、自分なりに勉強したメイクを施し、母に借りた黒いドレスを纏う。真珠のアクセサリーを身につける。
ヘアアレンジはしなくていいように、直前に髪はばっさり切っておいた。
普段は履くことのないヒールに、ヒールに合わせたシャンパンゴールドのバッグ。
その中に、娘をお義母さんに預けながら短期のアルバイトで稼いだお金を袱紗に包んで大事にしまった。

それとは別に、娘のお世話グッズを入れたバッグも忘れてはいけない。
0歳児を連れての参加への不安は、弟夫婦が和らげてくれた。
実は、弟夫婦には私の娘と同い年、同じ3月生まれの娘さんがいるのだ。
私が母に妊娠の報告をした当時、ほぼ同時に弟夫婦からも妊娠の報告があり、母はひとりでニマニマしていたそうな。
お互い同い年の赤ん坊がいることに安心したし、会えるのが楽しみだった。

それにしても緊張する。
いくら準備しても大丈夫な気がしない。結局声はガラガラのままだし…
でも、もう時間だった。

整えた身なりとガラガラの声で、久しぶりに父や弟、祖父母に親戚、そして初めましての新婦さんやそのご家族に挨拶をした。
厳かな雰囲気の中、ガラガラな声でスピーチをした。

ほぼ初めて経験する結婚式は、何もかもが新鮮で、美しくて、キラキラしていた。
よく「幸せをわけてもらった」と聞くけれど、まさにそんな感じだ。 
結婚式の定番とも言える「親への手紙」のシーンでは、ここに母がいないことにやはり少し胸が痛んだけれど。

でも、とにかく幸せな空気に満ちていて。
その中心で祝福を浴びる新郎新婦に私も惜しみない祝福を送った。
弟が今日まで丁寧に繋いできた人生に、これからの人生に。

その日は、弟が予約してくれていた式場のホテルでしあわせな気持ちで眠りについた。なんとも贅沢な夜だった。

✳︎

翌日は、弟の提案で久しぶりに家族(父母弟私)そろっての食事会をすることになっていた。
(その間、夫と息子には大分を自由に観光してもらうことに)

ホテルをチェックアウトして迎えを待っていると、弟が車を運転して登場した。
初めて、弟が運転する車に乗る。なんだか不思議な感じだ。
私も夫も車を持っていないので、車に乗ること自体が久しぶりで新鮮だったのもあるかもしれない。

案内されたのは、フグ料理店だった。
久しぶりに父、母、弟、私の4人が揃う。
(私の娘も参加なので正確には5人)

席に着くと、続々ときれいに盛り付けられたフグ料理が運ばれてきた。お刺身、唐揚げ、フグの肝まである。

乾杯ー。
したのだろうか。忘れてしまった。でもきっとしたのだろう。
弟の結婚や、久しぶりに「家族」として過ごす時間に。

おいしい料理を食べながら、たわいのない会話をした。
初めて食べる「フグの肝」にも話がふくらむ。
父もフグの肝は初めて食べるようだった。
父に習って、肝を溶いたポン酢にお刺身をつけて食べてみる。こってりとした味が舌に広がった。

【注意】
フグの肝は一般的には有害な毒(テトロドトキシン)があるため、条例で食べることが禁止されています。
フグを調理するには「フグ調理師免許」という専門の免許が必要になり、免許を持たない者はフグを調理してはいけない…というくらい、フグ(特にその肝)は慎重に扱わなければなりません。
大分県では食べるエサなどの管理を徹底した特別な養殖フグの肝が提供されることもありますが、くれぐれも一般の方が調理したり食べたりは絶対にしないでください。最悪、しにます。
当時は久しぶりに家族集ったうれしさと弟が予約したお店という安心感もあり、なんの警戒もせず食べましたが… 帰ってから、フグの肝を食べたという事実に気付いて遅まきながらびっくりしました。
弟なりのおもてなしで、久しぶりに帰ってくる私や両親のために、大分県以外では滅多に食べられないフグの肝が食べられるお店を予約してくれてたのかもしれないな…。
だとしたらもっといいリアクションするべきだったかな。鈍感な姉でごめん。

実家にいた頃はあんなに分かり合えないと思っていた父とも、久しぶりに会えたのが嬉しくて穏やかに話が弾む。0歳の娘も、場の雰囲気を和ませてくれた。

父も、私と久しぶりに話せるのが嬉しそうに見えた。
母は普通に父にも話しかけていたけれど、父は母に話しかけられる度に中学生男子のような反応をしていて、私にはそれがちょっと可笑しかったりして。

過去の諸々の影はなく、その時の私たちは側から見れば紛れもなく「家族」だったと思う。

(おじいちゃん&孫娘による初握手)

食事も終わって、さぁ出ましょうかというとき。弟が、お店の人に写真をお願いした。
母、私(と娘)、父、弟の順に並んで、カメラにピースサインを送る。
潮干狩り以来の、私たちの新しい家族写真だ。

店員さんにお礼を言って、お店を後にする。
支払いはすべて父がもってくれた。
「ごちそうさまでした」と父に言うと、昔家族で外食したときみたいだなと懐かしい気持ちになる。

外に出たところで、父に封筒を手渡された。出産祝い、と。びっくりした。
父だけではなかった。祖父母や親戚からも、ひとちゃんのときは何もしてあげられなかったから… と、結婚祝いや出産祝いと称された封筒を昨日もいくつかいただいていた。
お祝いしにきた立場のはずが、もらうものの方が遥かに多かった。
お金やものだけじゃない。心にもたくさん、あたたかいものが溢れていた。

ありがとう。元気でね、そう言ってここで父とはお別れだ。

母と私は再び弟の車に乗りこむ。
夫と息子が待つ場所へと送ってくれると言う。本当に何から何までお世話になりっぱなしだ。

車内で母はおもむろに小さな入れ物を取り出して、「チビに会う?」と言った。
入れ物の中には、猫のチビの遺骨が大事にしまわれていた。取り出して、そっと触らせてもらう。
最期に側にいられなくてごめんね、今までずっとありがとうね。
やっと、チビにお別れを告げることができた。

やがて車は夫と息子が待つ場所へ到着。
ここで母とも、弟ともお別れだ。
別れ際、「交通費」と言って弟が封筒を持たせてくれた。またまた私はびっくりする。
それは一般的には「当たり前」のことなのかもしれない。でも、私にとっては当たり前じゃなかった。

お祝いに来たはずが、どうしてもらってばかりなのだろう。たくさんの気持ちも、気遣いも。
私も何か少しでもみんなに渡せていただろうか。ずっとそのことを考えていた。

それからもうひとつ、大分へ来てからずっと弟の細かな所作のひとつひとつに私は感動していた。
私とは比べものにならない、立派な大人に思えて。

弟はすごいな。
真面目に働いて、長くお付き合いして愛情を深めた人と結婚をして。
働いたお金で母を食事に連れて行ったりして。父の側にいてくれて。
私がしてこなかった、できなかった「親孝行」をたくさんたくさんしている。
もちろん、私に見えているのは弟の人生のほんの、ほんの一部だけれど。

結婚式までの期間、私は自分の不甲斐なさから弟に弱音ともとれるメッセージを送ってしまったことがある。
そのとき弟はこう言ったのだ(うろ覚えなので、ニュアンスで)

「親がどうかなんて関係ない。自分のしあわせは自分で切り拓くもんやろ」

その言葉は、私の中にある「劣等感」のもやを切り裂いて真っ直ぐ胸に届く。
数年前と、立場が逆転していた。
いや、私は実際にそういう言葉を弟へ言ったことはない。けれど、心の中でずっと思っていた言葉だ。
「どうせなんもいいことない!」と言って飛び出した弟に抱いた感情、かけ損ねた言葉。
それを今度は、弟から私へ。

昔の私は、何があっても自分はしあわせだと言える自信があった。
親が離婚しようが何だろうが、私には好きなことがたくさんあって、それがあれば大丈夫なんだって。
だから、そんな歌も作って歌ったりしていた。

しあわせってさ 言葉にするにはさ
なんとなく照れくさい言葉だよね
だけどもしも「しあわせ?」って訊かれたら
迷わず「うん!」って頷くよ
「しあわせになりたい」って君は言うけども
僕が思うにしあわせは
なるものじゃなくて 気付くもの
ほら、今も君の横で
しあわせだって生きものですから 早く気付いてあげないと
隅の方でちいさくうずくまって そのうち消えてってしまうよ…

そう歌っていた張本人が、その信念さえ揺らぐような出来事にあって、自分の言葉に自信を失いかけていた。こんな気持ちのままで歌えないと思っていた。

そんな私の心に、弟の言葉はガツンと響いた。
私が抱きしめられなかった、今にも壊れてしまいそうだった弟の姿はそこにはなくて。
自分の意志で、自分の足でしっかりと立っているのが伝わってきた。

頼もしくなったんやなぁ…
うれしくて、眩しくて。
ねぇちゃんも負けてらんないな、と気を引き締められた。負けてられないっていうのは弟にじゃなく、自分自身にだ。

見た目が変わっても、立派な大人になっても、弟の心根の優しさ真っ直ぐさはずっと変わっていなかった。
これからもたくさん、楽しい幸せなだけじゃないことだってきっと起こる。起こってしまう。
それでも、自分で自分のしあわせに気付ける弟なら、きっと何があっても大丈夫。そう思えた。

✳︎

大阪に帰って、弟に改めてお礼とお祝いのメッセージを送った。

「父さん、久しぶりにねぇちゃんに会えて嬉しそうやったな」
という弟の言葉に、父が嬉しそうに見えたのは私だけの勘違いではないと知る。

「父さんも、なんだかんだでねぇちゃんのこと心配しちょるんやと思うよ」
うん、そうだね。本当に、そう感じられたよ。

私が結婚するときはいろいろあったので、半ば父に勘当されるような形で疎遠になっていた。
母とは時々LINEでやり取りするものの、父とはこの7年間全く連絡をとっていなかったのだ。
でも、久しぶりに会ってみて父の声や表情を直に感じて思った。
私、まだお父さんの「娘」でいいのかなって、ちょっとだけそう思えて、安心したんだ。

弟は、「こういうことはあまり言わん方がいいんかもしれんけど…」と前置きした上で
「父さん、ねぇちゃんとバージンロードを歩くのが夢だったらしいよ」と、こっそり私に教えてくれた。

その夢、叶えたいなって。ちょっと思った。
結婚式を挙げることは多分この先もないかもしれない。でも、せめてウエディングドレスを着て写真は撮りたいなと思っている。両親に、見てほしいんだ。
そのとき、可能なら… 父とバージンロードを歩かせてもらう、なんてこともできたらいいな。
いつか叶えられるように、その願いは心に大事にしまっておこう。

✳︎

大阪に戻ってからも、しばらく幸せな余韻はつづいた。
今までの人生で、あんなに充実していた時間はそうそうない。
今でも、冬の冷たい空気に触れるとあの日のことを思い出して胸の奥が切なく、あったかくなる。
本当に、なんて幸せな3日間だったんだろうと思う。
あんなふうに、私たち家族が再び集まることはあるのだろうか。
もしかしたら、あれが最後になってしまうのではないか。
「いつかまた」に向かって、私は歩けているのだろうか。

ずっと色褪せないでほしい。
些細なやり取りのひとつひとつが私にとっては宝物で、見たこと、もらったもの、感じたこと、すべて忘れたくない。

すでに3年前のことなのだ。
書きながら思い出したことも、ここには書ききれなかったこともたくさんある。
そうやって少しずつ、忘れていってしまうかもしれない。いいことも、そうじゃないことも。

あんなに喧嘩ばかりだったのに。生意気だと腹を立てていたのに。
あんなに「早く離婚してほしい」と思っていたのに。母に暴力を振るう父に憎悪さえ抱いていたのに…。
あの日はただただ家族でいられることが、娘でいられることが、楽しくて嬉しくてしあわせだった。

でもきっと、一緒に暮らせばまたすぐ喧嘩して、嫌になって、家族でいられることの有り難みを忘れてしまう。
だからきっと、このくらいの距離感が私たち家族にはちょうどいいのだろう。
遠く離れているからこそ、私たちはまだ「家族」でいられるのかもしれない。

相変わらず大分には帰れないし、まめに連絡を取り合うわけでもないけれど。
あの日の「乾杯」の記憶が、私たち家族を繋いでくれているんだと勝手に思っている。

少しずつ忘れてしまう部分もあるだろうけれど、色褪せた写真が醸し出す味わいがあるように、時が経つほどに出会える真新しい感動もあると思う。
お気に入りのアルバムみたく、何度も記憶から取り出しては、思い出にふけりたい。
あの日のことはきっと、私にとって一生の大切なお守りなんだ。

✳︎

今回のnoteは、ひらいみかさんのこちらのnoteを読んで私の中の大切な「乾杯の記憶」が呼び起こされたことをきっかけに、書き記すことにしました。

#また乾杯しよう の企画は締切終了していますが(なんならそろそろ結果発表の頃だと思いますが)、自分のために書きたかったのです。
いつかどこかで書き残しておきたいことでもあったので、良い機会になりました。
みかさん、心揺さぶられる文章を、そして書くきっかけと書ききる勇気を、ありがとうございました。

「本当」は探すものでも見つけるものでもなく、積み重ねるものだった。
積み重ねた日々、不器用な乾杯|Mica ひらいみか|note より引用)

人の数だけ、家族の形があります。
ひらいみかさんの「乾杯」、とても素敵なのでぜひ読んでほしいな。

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