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「レンガ積み職人のだれが幸せか ーもっと幸せに働きてぇなぁ仕事論」

仕事論というかモチベーションでよく出てくる 三人のレンガ職人の話。

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ざっくりというと
同じレンガを積む仕事をしていても
一人目は「レンガを積んでいる」
二人目は「大きな壁を作っている」
三人目は「偉大な大聖堂を作っているんだ」という話
で、
同じ仕事でも、意識の持ち方によって、仕事へのやる気、モチベーションが変わってくる、という話。

検索すると、案外、この話をめっちゃ素直に受け取っている派とちょっと皮肉ってる派がいるようでした。

ここまでストレートなやりがいを訴える話だと「やりがい搾取」が取り立たされる昨今、ちょっと捻って、答えたくなるのが人情ってなもんでごんす。

なので、特になんもいわなくてもいいような気もするんすが、フォーカスする部分を変えると、ちょっとは考え方の示唆になるのかも。

ミクロの視点で考えるとやる気を引き出せる

仕事というのは、往々にして、全体像がみえないもんである。
このレンガが大聖堂の壁になるだなんて想像もできないうちにタスクが割り振られ、とりあえず、レンガを積まないといけない日々を過ごすことは、レンガを積む以外の仕事を当てはめると案外大概の仕事に当てはまるのではでしょうか。

そんな時に、この仕事の意味はなんなのか、を考える。
そうすると、この無意味なエクセル作業の意味が見えてきて、やりがいになるかもしれない。大概、大きなやりがいのある仕事もタスクに分解すれば、ものすごく地味な作業になるだろう。

名画も一筆に分解すれば、絵具を塗るだけの作業。名作の漫画もペンひとつ動かすだけ。

ただし、自分がなにをしたいのか、自分ではなくともなんの役に立つのだろうか、と考えてみると、行動の源泉が湧く--かもしれない。

そういう意味で、自分の仕事のやりがいを考える、もしくはやりがいを創出する、というのは仕事のモチベーションを保ったり作ったりするのに重宝する。

どちらにせよ、働くのだとしたら。

※まぁどう考えても捻出できない場合はその仕事そのものがなんか間違っているのかもしれないと考えるといいのかもしれないですね。

マクロの視点で考えると、人の話を素直に聞きすぎないほうがいい

で、マクロの視点、というか、上記の話を聞いた時、大概が三人目を「正解」だと思うと思うのでありますよ。

なるほど、そういうふうに考えれば、日常をもっと充実したものにできるのか! と。

まぁそう思うこと自体は別に悪くないが、それでもあえて言えば、「自分で考えてそう思うこと」と「そう言われてそう思うこと」は別。

なので、「三人目の人がすばらしいから三人目みたいになりましょう」→「はい」ってのが、一番、あれ。

というか、別に三人目が1番「幸せ」かどうかなんて、それこそその人による。

ただレンガを積むだけと考えている人は、帰って幸せな家庭が待っているかもしれない。その家族を養うことがなによりも幸せだとしたら、レンガを積むことだけと仕事を考えることは不幸とも言えないだろう。

逆に 大聖堂を作るんだ、と勇んで、仕事に励んでいても、家庭崩壊していたら、その人は幸せなのだろうか。

いや、家族云々の幸不幸も問わず、もうふつうに日銭を稼いで、家でだらだら酒を飲むのが幸せだっていうのならば、それはそれでそのひとにとっては満足いく人生といえるんじゃないだろうか。

どれが幸せというわけでもない。
やりがいがあれば、充実するかもしれない。けれども「やりがい」があれば幸せってもんでもない。
なにかをなしえないといけないわけでも。
何者か、にならないといけないわけでもない。


ただそれでもなお、なにかをなし得たいとおもっちまうのが、凡人のサガ。

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もっと怠惰にーー諦められたら楽なのにねぇ。


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つい買って、無意味と知りつつ、積んじまう。

最後まで読んでくれて thank you !です。感想つきでシェアをして頂けたら一番嬉しいです。Nazy