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蚊取線香

この季節の夜は、きまってベランダに出る。夏が来る前の夜は昼間のそれからは考えられないほど涼しく、すべてが透き通っているような気がする。そして、バスが曲がる前に大きく光る四角の小道具店に心を踊らせているのは、きっとわたしだけじゃない。



いろんな感情や苦難を、自分だけじゃないからと乗り越えた。でもそれと同時に、全く同じ温度で感じているのは自分だけであって欲しかった。独り占めしたいと願うその救いとの矛盾は、いつまで経っても消えない。誰かのものであって欲しいと同時に、自分だけのものにしたかった。

そういえば誰かが言った。普通でいたい。けれど、特別になりたい、と。広義で言うならばその範囲は全世界になり、彼の発言は当てはまらない。誰か、もしくは対象の彼らの中でのみ特別を確立し、あとは平穏に過ごしたい。言葉を省略すれば矛盾が生じるすべての感情理論は、限定的な副詞を追加するだけで矛盾しない。文はシンプルがいいと言ったのは誰だ。ときに、それは当てはまらないんだから、と彼女はいつも言っていた。


急いでタクシーに乗る。現金をあまりもたないまま個人タクシーに乗ってしまって、現金決済しかないと告げられる。カードを使いたかったのに、と思ってしまうだろう。けれど、カード決済のシステムを整えるのに結構な金額がかかることを知っていれば、そもそも個人タクシーを選ぶべきじゃない。
知っているだけで、いろんな出来事で自分が傷つくことも、傷つけることも減らせる可能性がある。

知ることを諦めない、というとそれは学びに直結し、もっと気楽にいきなと誰かが囁く。甘い誘惑のように聴こえることもあるけれど、それはただの停滞という思考停止に過ぎない。


いろんなところに足を突っ込んで、その度に刺さった棘が部屋中に散らばっている。この空間と交差する感情は、自分だけのものだ。すべてが混沌としているその中で、揺るぎなくまっすぐに火を進める蚊取線香を眺めながら、方向を確かめる。一方向に、ゆるやかに燃え続ける、夏の夜の白。

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