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雑誌に掲載されなかった写真

世の中は少しづつ良くなっていて、昨日よりは今日、マイノリティーにとって暮らしやすい社会になっているのではないかと思っていました。でもそれはマジョリティーに属した者の思い上がりだったようです。


先週、フランスのとある結構イケてる雑誌の撮影のアシスタントをした時のことです。アクセサリーとカバンの特集で、12人の男性モデルを起用した撮影でした。女性用のカバンをあえて男性モデルに持たせ、かつ、スタイリングは下半身全てブリーフかボクサーショーツで統一、上はジャケットを羽織っていたり、シャツだけだったりという、肌を見せるコーディネートが新鮮でした。撮影もスムーズに進み、スタイリストもフォトグラファーも出来栄えに大満足。良い写真が撮れていました。


ところが昨日また同じフォトグラファーのアシスタントをしていると、めったに怒らない優しいフォトグラファーが憤慨しているのです。話を聞いてみると、先日撮影した写真、ボクサーショーツを着た写真はOKが出たけれど、ブリーフを履いた写真は全てブリーフとわからないところまでトリミングしないと掲載できないと雑誌サイドから言われたというのです。

ブリーフは”ゲイ”過ぎるのだとか。

果たしてブリーフを履くのはゲイなのか?そして何よりたとえゲイに見えたとして、一体それのどこが問題なのでしょうか。

モードという世界は性的マイノリティにオープンな場所だと思っていました。それでも今だにこんなところで規制が入るということに驚きが隠せません。

フォトグラファーの彼もゲイです。彼がつぶやいた言葉にハッとしました。

「結局ヘテロにとってゲイが異質なものであることは絶対に変わらない。僕が15歳の時と、今と、何にも変わっていない。」


そうか、そうだったんだな。当事者にとっては本当に、何にも変わってないんだろうな。


一緒に話していたアートディレクターも

「その通りだと思う。法律や制度が変わるから、変化することもあるだろうけれど、人間の本質は変わらない。」

と言っていました。自分と異なるものや少数のものを排除しようとするのが人間の”本質”なのかもしれません。


アジア人としてパリに住んでいて、差別を受けることもあるし嫌な経験をすることもあるけれど、パリに住んでいるのは自分で選んだこと。わたしは日本に帰れば多数派になれます。

でも、性的指向だけでなく生まれや環境や思想など様々な条件で、生まれてから死ぬまでどこへ行っても常に少数派である人がいるんだと、そんなこと想像もしていなかったことに気づかされました。

自分の小さな経験だけで他人のことを測ってしまうと物事を矮小化してしまいます。だから、世の中いろんな人にとって生きやすくなってきているなと思えたのでしょう。

いつも優しくて明るいこのフォトグラファーは、わたしが想像もしていなかったような悲しかったり辛かったり憤るような経験、理不尽な経験をいくつもしてきたのかもしれません。

自分の隣にいる人のことだって全然分からないのだから他人のことを知った気になったり勝手に決めつけたりしないようにしたいなと思いました。







ところで、冒頭の写真は映画『恋する惑星』のワンシーン。ブリーフといえばやっぱりトニー・レオンですよね。ブリーフのことを考えていたら久しぶりに観たくなってきました。『恋する惑星』のB面的作品『天使の涙』もオシャレ過ぎてヒリヒリする名作です。






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