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わたしは中学生のとき奴隷だった 3

ここまで

わたしは中学生のとき奴隷だった1
わたしは中学生のとき奴隷だった2

上記を読んでからじゃないと、全く意味がわからない内容になっているのでよろしくお願いします。

「龍がついている」

あの子はよく言っていた。「知り合いのお坊さん(だか呪術師だったか忘れたけれど)に、君には龍がついてるね、と言われた」と。
精神が錯乱した状態の人のことを昔は「狐憑き」と言ったものだが、龍とは。

あの子は、極端な性格と凶暴性、中学生の女の子にしては背の高い170cmくらいの体格も相まって、この世の全てが自分の思い通りにならないと気が済まないように思えた。

でも、今になって、やっと少しだけ分かる。
あの子がきっととても悩んでいたこと。
あの子が、自分の母親に「青山ちゃんは"違う"のだから、あんまり関わらないであげなさい」と言われて、どう思ったのか(これはどっかの何かしらで聞いた)。
本当にわたしは、あの子のことが心底憎かったのだろうか?
色んな人を試し、色んな人に裏切られ、色んな人に嫌われる人生の中で寂しさを感じなかったのだろうか。

自分にすらコントロール出来ない感情が、頭の中を渦巻いて仕方なかったのではないか、と。

Nちゃんの思い

前回の記事に書いた、Nちゃんに渡した電子の手紙。その晩、Nちゃんから電話がかかってきた。メールでのやり取りは最近多くなっていたけれど、電話というのは珍しかったと思う。

Nちゃんは、泣いていた。泣きながら、わたしも同じだよ、と言ってくれた。わたし達はその夜、本気で命を賭けて秘密を共有した。大袈裟じゃないよ。

そして、わたし達はその後、深夜に電話をして早朝に会い、一緒に朝ご飯を食べて学校の手前で解散するという日々を送るようになった。
Nちゃんの方は知らないけれど、わたしは部活を休みがちになり(Sちゃんや部活仲間にはそのときもこれからも、お世話になりっぱなしでした)、授業中はほぼ全部寝ていた。

それでも学校にだけは行っていたし、わたしは体育以外全部5(体育はあの子と組まないといけなかったから出たくないときが多かった)で試験でも500点満点中490点以上などザラだったので、先生も見逃してくれていた。
それに、わたしが学校に来なければ他の生徒に被害が及ぶ。暴れることもあれば、無作為に誰かに暴言を吐くこともある。ついでにあの子の成績も少し下がる。
それなら、わたしの内申点を誤魔化すほうが楽だったのだ。きっと。

大体ここら辺までが、中学1年生の話。
昔の携帯小説みたいになってきていて、今更ながら恥ずかしい。どれだけ戦ってようが、自分の中で嫌な思い出だろうが、本当に傍から見たらくだらないことで悩んでる苦くて酸っぱいくらいの文章に違いない。
承知の上で、頑張って書き終えます。

中学校2年生

晴れて2年生になったわたしは少しワクワクしながら学校へ向かった。今日はクラス替えの発表がある。張り出された紙を見に行く。
こんなに頑張ったんだ。わたしのクラスはあの子と別にされているはずだ。そんな希望は、まあ簡単に打ち砕かれる。
1組に並ぶ、あの子とわたしの名前。
暫く張り出した紙の前で立ち尽くし、その後何があってどうやって家に帰ったかまで覚えていない。

覚えているのは帰ってから、食べた昼食。
おばあちゃんの作ったチャーハンだった。

両親が共働きの従姉妹は、よくわたしの家でご飯を食べていた。従姉妹と、わたしと、おばあちゃんとの3人での昼食の間ずっと、涙が止まらなかった。

Nちゃん以外の前で、その日まで泣くことがなかったわたし。ましてや家族なんて。従姉妹はきっと察していたのだろう、泣いているわたしに何も言わなかった。
おばあちゃんは、忘れた。

不登校という選択

わたしは、「1年だけ頑張れば」という浅はかな希望だけを生き甲斐にして生きていたので、きっとそのとき心が折れたのだと思う。
最初、何日かは通った記憶があるけれど、何ヶ月も経たないうちに学校へ行かなくなった。

最初は体調不良と申告。自分の部屋に閉じこもっていた。それが何日も続くと、さすがに放任主義の家族もとやかく言ってくる。

特におばあちゃんは必死だった。「どうして学校に行ってくれないの」と寝ているわたしの体を揺らしながら泣いていた。
どうやら、厳格だったおじいちゃんからの圧力があったらしい。あとは世間体。本当にそれだけ。絶対にそう。
だって、理由のひとつも、きっとマトモに聞いてくれなかった。ヒステリックに泣き叫ぶだけ。泣き叫びたいのはこっちだ。

今まで散々優等生してあげたでしょう。何の文句も言わずに。何の相談もせずに。しても根性論で突き返されるだけだと思ってたし。
「友達が来たよ」っておばあちゃんはニコニコしながらあの子をよくわたしの部屋に通していた。嫌な顔を見せるわたしの心の内など全く見据えられなかったのだろう。許せなかった。わたしは勝手に、家族を憎んでいた。
わたしが、何も話さなかっただけなのに。

クラス替え。今でもどんな形で決められているのかは謎のままだけれど、成績が平等になりそうなこと・問題が起きなさそうなこと・親戚類や同じ苗字は出来るだけ離される、辺りはあったんじゃないかな。そして、何より、親からのクレームが来ないことが大事だ。

1年生、最後の学期末に三者面談があった。
この1年どうでしたか、とか、親と担任が話すやつ。わたしには考えもつかなかった。そこで親に「あの子とクラスを離してください」と言ってもらう、なんてこと。

だって親は子どもの問題に関係ないし、学校での問題を見てるのは先生で、先生が判断することだと思っていたから。
最後の最後まで、あの無干渉を決め込んだ担任も、本当は人の心があって、本当はどうにかしたいと思ってるんだ、なんて、

期待していた。愚かだった。

ほとんどの同級生の親が、「あの子とクラスを離してほしい」とその際に言っていたそうだ。だから、「言わなかった」わたしは、当然、同じクラスになるしかなかったのだ。
あの子の存在すらその時点で親は知らない。

母親は、学校に行かなくなったわたしを、ただの思春期の反抗だと思ったのか、何か他愛もない喧嘩でもあったと思ったのか知らないけれど、「わたしも学校行きたくないときあったし、行きたくなかったら行かなくていいよ」と言ってくれた。
引きこもっていた間、父親と話した記憶は、一切無い。

毎日 襲来する強敵 祖母の声
って感じ。叩き起されるけどひたすら無視する。諦めて出ていく。夕方くらいに起きて、Nちゃんと電話する。夜中じゅうずっと。

Nちゃんのことは勿論心配だった。ただ、クラスは今年も離れられたみたいで、特別な事件があることもなく、そこそこ平和に過ごせていると言っていた。
「朝ご飯だけでも一緒に食べようよ」
そう誘ってくれて、たまに早朝に会い、いつもの場所でいつもの音楽を聴きながら笑いあった。その時間だけが生きてる心地がした。

あの子もあの子で、わたしの友達である。
家にも来たし、電話も鳴り続けた。何度目かの携帯の破壊を実行、画面も見えなくなって、音も鳴らなくなったけど、「あの子専用の着信ランプの色」がひたすらに点滅し続ける携帯はあの子そのものみたいで不気味だった。

自傷行為とか希死念慮とか

「死にたい」。今でもわたしが抱き続けている感情は、中学1年生のときに生まれた。小学生の頃から漠然と「大人になったら早く死にたいな」とは思っていたけれど、もっと具体的に。

その頃切り刻んだ腕の傷跡は悔やんでも悔やみきれないけれど、誰かに指摘されるたびに悲しくなるけれど、その頃死ななかったんだから褒めてほしいくらいだ。
「死にたい」よりも、「死ぬしかない」とか「死ななきゃいけない」という感覚。

中学生の世界は、大人が思っているよりずっとずっと狭い。きちっとした制服を着て、少し人間になった風に見えるけど、校区の外に出るのは禁止で他校の友達とすらほとんど会えない。
中学生の世界の大半が、中学校と家庭の間だけ。

ぽつぽつとニュースで聞く小中学生の自殺を、「何で」とか「誰かに相談したら…」とか、今でも言えない。分かるもん。相談できない環境が、その子を追い詰めたんだってこと。

親だって人間だ、充分に愛情を注いでいたつもりだったかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、それは他人には分からない。
だけれど、「失敗した」ことは事実だ。
子どもが死ぬのは、いじめのせいとか、学校の成績がどうとか、それより根本的に家庭環境が大いに影響していると思っている。

もし、もっと早く、わたしが親と仲が良くて何でも相談できていたら、何か違ったのかもしれない。
小学生の時点で、私立受けたい、とか。
真面目ではあったけれど、当時レールに沿った生き方しか知らなかったわたしには、到底思いつかなかった選択肢だけれど。

反対に、「殺そう」と思ったことも何度もある。エスカレーターでわたしのほうが上にいるとき。駅のホームに立ちながら。わたしがあの子を殺すことで、沢山の人が助かる。困るのはわたしとわたしの家族くらいだ。それならそれは「善」なんじゃ?って本気で思ってた。
でも、出来なかった。そんな勇気はなかった。
そんな勇気の無さを、どこにもやり場のない苦しみを、自分にぶつけて、その頃わたしはよくあの子に「死ね」って言われてたから、次に言われたら目の前で死んでやろうって思ってナイフを持ち歩くようになった日から、とうとう最後までその言葉を聞くことはなかった。
どうしようもなく、生きていた。

中学2年生の担任

中学校2年生のときの担任は、生徒の評判もとてもいい、フレンドリーで明るくて英語を教えるのがとっても上手な若い女性の先生だった。
当時で、今のわたしと同じくらいの年齢だったと思う。30手前とかそこら。

わたしはその先生の授業が大好きだったし、その先生のことも好いていた。でも、1年生のときのことがあるから、大人は信用するものじゃないって思ってた。

不登校になって暫く経ってから、その先生が家に来てくれた。正直、何も話すことは無かったし、改まって正面を向いて話したくも無かった。先生は、二人きりの部屋で
「学校に来れないの、あの子のせいでしょう」
と言った。今まで、Nちゃん以外に言ったことがないこと。ずっと一緒にいたSちゃんにすら、言葉に出してはっきりと言ったことはなかった。そのくらい周りが全部敵だと思っていたのだ。その瞬間、頷きながら涙が止まらなくなって、この人は信用してもいい人なのかなって思った。
「どうにかするから」と先生は言った。

「あの子」という呪い

ヴォルデモートのことを名前を呼んではいけないあの人と言うことは全世界が知っていることで。それと似たような、そんな空気が、わたし達の中にはあった。
Nちゃんとの会話の中で「あの子」の名前を出すことはなかったし、先生とその後関わっていく中でも「あの子」と呼び続けていた。
何故か、って、ハリーポッターシリーズを読めば分かる。きっと。

先生は、まずあの子と仲良くなることから始めた。あの子に自分を信用させて、コントロールさせようと。わたしが出来なかったことを、大人だった先生はすごく丁寧かつ慎重に、確実にやってみせた。
尤も、コントロールできていたか否かは100%とは言えない。それでもあの子は徐々に先生の言うことを聞くようになっていったし、先生のことを気に入っていった。

その間にわたしはと言うと、Nちゃんと朝ご飯を食べたあと、保健室登校ならぬ職員室VIPルーム登校を始めていた。
確か職員室の奥の方、応接間だったんだろうか、そこでNちゃんや担任の先生と喋ったり、授業内容を聞いたりして過ごす。

そして、少しずつ、先生はわたし達とあの子の距離を離していった。あの子には新しい取り巻きが出来ていた。
"じゃあ、その子が新しい犠牲になったのでは?"というと、そういうことでもないらしく、他の女子から虐められていたその子があの子に寄り付くことで虐められなくなったとか、なんとか。持ちつ持たれつなのか。

最初、あの子抜きで仲良くしているわたしとNちゃんを見てあの子は勿論不快な感情を示してきた。しかし、先生が本当にうまいことしてくれたんだろう、まるで何事も無かったかのように、まるで最初から関わりが無かったかのように、普通の中学生としての日常が戻ってきた。

そのうちのひとつとして有り難かったことに、「あの子専用」の、俗に言う「特別学級」が設けられたことがある。
だから教室で滅多に会わなくなった。これが一番大きかった。

そんなこんなで、秋。
やっと終わりに近づいてきた…。

わたしは、体育祭にどうしても出たくなくて、それは去年の体育祭で「あの子関係のトラブル」があり、確か終わったあと2時間くらい、教室に閉じ込められたことがあったからだった。

その旨を先生に伝えることにした。ボヤかした言葉で、こういうことがあったから体育祭に出たくないんです、とメールを送った。
事件は次の日に起こった。

遠く廊下から、金切り声と表した方が近いであろう叫び声。女性の泣き叫ぶ声。ガラスの割れる音。物がガンガン投げつけられる音。
何か、とんでもないことが起こっていることは間違いなかった。

「青山!!!」
わたしを怒鳴りつけるときのあの子の声。
わたしは、教室から出て音の鳴るほうへ向かった。

「来ないで、来ちゃだめ」
担任の先生があの子の腕を必死に掴んでいるが、あの子はわたしを見つけ、わたしの方へ向かって止まらない。手に持ったモップでわたしを殴りつけ、髪の毛を引きずり回す。

「お願い!!!辞めて!!!」
先生は何とか引き留めようとしながら懇願する。その騒ぎを何事かと男の先生も2人、止めにきた。
大の大人3人に止められて、それでも力のありったけを使わないと彼女を制止させることは出来ないようだった。

わたしはもう、悟っていた。
ああ、メールを見たんだね、と。
先生はあの子に携帯を取られてもいいように、ロックをかけた上でわたしの名前を全く別人の名前で登録していたらしい。
しかし、不意をつかれロックを解除したときに携帯を取られ、内容からわたしが送ったメールだと分かったようだ。当の本人の話なので、当然である。

大人3人に止められたあの子は、涙目になりながら、スカートの裾をかたく、かたく握っていた。その手は震えているのが分かった。
そのとき初めて、「彼女は誰かを信じたかっただけなのかもしれない」と思った。「やり方が歪なだけで、寂しかったのかもしれない」と思った。
裏切らない、と言った友達。信用していた先生。その両方が自分のことを陰で邪魔だと思っていたんだ。怒って当たり前だ。

スカートの裾を握る右手を見て、ああ、本当は殴りたくないんだよね。とも思った。少なからず傍にいたのだ。わたしが1年で達成したことは、同級生全員に「ちゃん付けで呼んで」と自ら「リサちゃん」と呼ばせていたのを、「呼び捨てにしていい?」と言って呼び捨てで呼んでいた程度だ。それでも。

周りの先生たちに「もういいです」と言って、わたしはあの子の拘束を解いてもらうようにして近付いた。「殴りたいだけ殴って」とわたしがあの子の目を見ながら言ったとき、あの子は怒りの中に心做しか悲しい表情を見せた。

そのあとも、担任が泣き崩れる声、再び始まる暴力に耐えきれず止めに入る先生たち、そんな様子を、わたしはどこか遠くから見ていたようなふうに覚えている。
引きずられてるわたし。何度も顔を打たれるわたし。別に痛くも悲しくもないのに、人間って目のあたりを殴られたら勝手に涙が出るんだ、って知った。早く終わらないかなあ、と思っていた。
本当に、何も、感じなかった。
一通り騒動が終わってから、わたしは社会の試験が始まっている教室にぐちゃぐちゃの髪のまま戻った。試験用紙に名前を書こうとして、その前に髪をかきあげたら、手のひらにホラー映画みたいに髪の毛がまとわりついて笑っちゃった。

あの子と直接、ちゃんと関わったのはこの日が最後になった。というわけで、この物語は一応の終わりを迎えたのだけど、それから皆がどういう道を歩むことになったのか、疲れたので、後日談は、後日…。
結局4までいくことになってしまった。集中力もなければ、書き溜めておく我慢強さもないから困る。

読んで下さってありがとうございます。
よかったら最後までお願いします。

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