あなたがくれた、世界の続き

あ。殻が、割れた。

彼と初めて目が合ったとき、咄嗟にそう思った。

割れたことに気がつくまで、自分の周りをこんなに
硬い殻が覆っていたことに、全く気づかなかった。

無数の驚きがその一瞬の間に層になって押し寄せて
きて、私の身体はしびれたようにそこから動けなく
なった。

まだ一言も話していないのに、私はもう、彼によって新しい世界への最初の一歩を踏み出したことに、
ほとんど直感と言っていいくらいはっきりと、
全身で、それを理解していた。


彼との出会いは、ほんの数時間前だった。

複数人で大きなテーブルを囲んだ飲み会の席で、
私たちは、ちょうど対局線上に座っていた。

それなのに、初めて目が合ったとき、その一瞬で
「あ、この人。」と心の中で呟いた自分に、自分で
びっくりしていた。

飲み会が終わったら、彼と話すことになる。
それは、ほぼ確信に近い予感だった。

仮にこっちが声をかけなくても、向こうから
話しかけてくる。なんとなく、そう思った。

いずれにしても、私たちは、出会うことが予め
決まっていた。なぜかそんな気がした。


「あ、どうも。」

短くそう言って声をかけてきた時の彼は、なんだか
申し訳なさそうに眉を下げて、口元は締まりが悪く
開いていて、泣きながら笑っているような、
情けない表情をしていた。

思わず笑ってしまう私を見て、少しだけ驚いたような
表情をした彼は、

「え、なになに。」

少し慌てたような、それなのにどこか穏やかな
凪のような表情をした。

この人は、これまで出会ったことのない種類の
人間だ。

そう感じたのと同時に、この人は、私に、
たぶんかなり似ている。そうも思った。


彼は、文章を書く人だった。
私も文章を書くのが好きだと言って彼に初めて
それを見せた時、

「はは、文章がメンヘラだねえ」

と、さらっと言って笑った。
それは五月の風のように軽やかだった。

衝撃が走った。

頭を重たい石でガツンと殴られたような感覚。

彼にとってその言葉はおそらくなんの悪気もなく、

「長い、短い」のような、他の形容詞と同じ、
ただの形容詞のうちの一つだったのだろう。

彼の言葉と表情から、それがわかった。
そのことが、あまりにも衝撃的で、戸惑った。

私が今まで苦しめられてきたものたちと、彼は、
対局のところにいる人だった。

私はこれまで、人生で抱えてきた暗い記憶や
深い傷を、人に打ち明けることができないまま
日々を過ごしていた。

それだけならまだしも、無理に明るく、幸せな
少女であるかのように振る舞うことを努めてきた。

ほとんど本能に近い義務のような感情から、
そうしてきた。だから、誤解されることが多かった。

親しくなったと思った友達にさえ、「大切に育てられてきたんだろうね」とか「悩みなんてなさそう」と
言われてしまうのだから、もう、救いようもなかった。

私が嘘をついても、一生誰にも知られることは
ないのだろうか。

そういう時、いつも強い孤独に襲われるのだった。

私のことなんて、きっと、誰もわからない。
あそこで笑っているあの人よりもずっと傷ついて
きたし、たくさんのものを失ってきたのに。

それを隠して、今こうしてぎりぎりの笑顔を作って
立っているのに。どうしてわかってくれないのだろう。

何度も何度も心の中で叫びながら、実際は、
「そんなことないよ」なんてへらへら笑いながら、
人工的な笑顔を貼りつけることしかできなかった。

そんな自分にも、それが本心ではないと気づいて
くれない周りの環境にも、そろそろ嫌気がさしてきた
頃だった。

だから、彼に自分のことを一瞬で見抜かれた時、
ほんの少しの恥じらいと驚き、そして大きな歓びが、
私の全身を包み込んだ。

それは、今までに感じたことがないくらいの熱と
勢いを持った、大きな渦だった。

私は本格的に彼を気に入って、次第に色々なことを
話すようになっていった。

昔の恋人のこと。家族のこと。
過去のトラウマ。癒えることのない傷。

そういう、思い出すだけで身体がじんじんと痛むような記憶についての話を、彼には、なぜか天気の話を
している時のように、気軽に話すことができた。


彼と話している時の私はとてもあっけらかんとして
いて、遠くから私たちを見たら、目の前の料理の味に
ついて感想を言い合っていると思われてもおかしく
ないくらい、ほのぼのとしていて、暗さが微塵も
なかった。

そうやって客観的に自分のことを分析できている
ことに、私自身が一番驚いていた。

その感覚がたまらなく愉快で、
そしてこの上なく、居心地がよかった。

自分が自分のまま、そこに立っている感覚。
このままの自分が、受け入れられている感覚。

私の一部だけを見て、まるで私の全てを知っている
かのように決めつけて話す周りの人たちと、
彼は圧倒的に別の次元にいた。

私が日常的に彼と話すようになって、

「うわあ、相変わらず眩しいねえ」
「毎日楽しそうで、俺とは大違いだ」

なんて言ってくることはあったけれど、
これらの言葉には全く棘も毒もなかった。

遠くの空を見上げて、「今日は夕日が綺麗だねえ」
と言う時と、全く変わらない空気を含んでいた。

彼の言葉には、いつも、そういう人を不安な気持ちに
させる色が一切なかった。とても中性的だった。

彼は誰よりも人のことをよく見ていて、
それていて、人に関心がなかった。

そんな事実が、私をこんなにも自由にさせるなんて。

これも、彼と出会って得ることができた、新しい発見だった。

そんな彼が書く文章は、私にはとても難解で
何を伝えたいのかほとんどわからないことが多かった。

もちろん、その言葉の意味そのものはわかる。
けれど、彼がその言葉をどのような意図で使っているのか、そこから何を感じて欲しいのかが、
私には、全くわからなかった。

ただ一つわかったのは、たぶん、彼は私以上に、
心が裂かれるような経験をたくさんしてきたのだろう、ということだった。

彼の文章には、私が今まで誰かと一緒にいた時に
感じていた体温というものがなくて、常に、
そこにただ存在しているだけ、という印象があった。

一定の位置で、ただそこに浮遊していて、
でも、視線はずっとこちらを見ている。

何かを伝えたいような、でもわかってほしくない
ような、静かな目線をじっと投げかけて
くるような。そんな文章だった。


初めて文章を読んだ時、何か言わなくては、と
思ったけれど、結局何も思い浮かばなくて、
いいですね、と言って、結局曖昧に微笑むしかなかった。

彼は、うん、ともああ、とも取れるくぐもった声で
相槌を打って、その紙の束を、鞄にしまった。

この日初めて、彼に対して「寂しい」と、
少しだけ思った。

文章は難解だったけれど、会って話す時は、
その難解さを持つ人間とはまるで別人のように、
からっとしていて爽やかな人だった。

いつも変なアロハシャツを着ていたからというのも
あるかもしれないけれど、彼が目の前に現れると、
なぜかいつも、数秒前まで深刻に悩んでいたことが、すべてどうでもいいことのように思えた。

彼の、いつも眉を下げて、困っているのか愉快なのか
わからない情けない顔を見ていると、こっちまでそれが伝染するのだった。

いつの日か、「自分はラクダに仲間だと思われたんだ」という話を唐突にされたことがある。しばらく
その話が忘れられなくて、元気が出ない時にこっそり
思い出しては一人で笑った。


そんな、表面は呆れるくらい明るくて強く光って
見える人が、私よりも深い闇を抱えているなんてこと
が信じられなくて、たまにそれを忘れてしまう瞬間が
あった。

チェーンの安い居酒屋で彼のくだらない話を聞いて
いると、本当に、彼はなんの悩みも苦労もない、
ごく普通の青年に見えた。

「俺の家、複雑でさあ」

彼が自分の話を始めたのは、店員さんが各テーブルを
ラストオーダーです、と言って回り始めた頃合いだった。

その時も、彼はまるで「明日、雨らしいよ」
と言う時と全く変わらないテンションだった。

こっちが心配になるくらい、その口調は軽やかだった。

「父親が誰か、未だにわからないんだよねえ」

枝豆を掴む手を止めずに、なんてことないような
顔をして話し続ける彼を横目で見る。

きっと彼は、何とも思っていない振りをすることで
しか、こんな話をすることはできないんだな。
咄嗟にそう思った。

それを証明するように、彼は何度ももう空になった
ビールのジョッキを傾けては、「あ、もうないじゃん」と呟いて、店員に声をかけることもなく、
斜め横くらいに座る大学生くらいのカップルに
視線をやったりしていた。


私は彼を見ていいものか、見ない方がいいものか
わからず、ただ静かに、薄くなったレモンサワーを
マドラーでぐるぐるとかき混ぜていた。

ぎっしり入った氷が窮屈そうに、ガラッゴロッと
音を立ててグラスの中を一周した。

「まあ、最近母親に彼氏ができて幸せそうだからいいんだけどさ」

独り言のように呟いた彼の顔はいつものへらへらと
した顔で、私は少し安心したような、物足りないような複雑な気持ちのまま、そうですね、とまた当たり障りのない笑顔を返した。

「あ〜、俺にも彼女できないかなあ」

その声は妙に間延びして、ぽつぽつと人が
減り始めた店内に、あたたかく、優しく響いた。

それはとても、平和な夜だった。

あれから、彼とは一年に一度か二度くらいの頻度で
会うことがあった。

けれど、いつしかそれもぱったり途絶えてしまって
いた。

急に今、彼を思い出しているのは、もしかすると
私は、彼のことを誤解していたのかもしれない、と
ふと思ったからだ。

あの頃の私は、自分と彼を完全に重ね合わせていた。

彼も私と同じように、過去の傷や暗い記憶を抱えながら、それでも明るく強い人間であるように見せているのだと、信じて疑わなかった。


でも、もしかするとそれは私の思い込みだったのかも
しれない。

そんな考えが、唐突に浮かんだ。

彼は楽しい時は心から楽しそうにしていたし、
苦しい時は全身全霊で、苦しんでいた。

それを誰に隠そうともせず、「苦しい」と、
ちゃんと叫んでいた。

悲しみや苦しみを隠して明るく振る舞うことが
正しいと思って生きてきた私とは、全然違った。

私が義務だと思ってやってきたことは、私が選んで
やってきたことだ。

もちろん本当にそうしたくてしていたわけではない
けれど、最終的にその生き方を選んだのは、紛れもない、この自分だった。

その生き方をやめようと思えば、いつでもできたはずなのに、私は、やめなかった。


苦しいなら苦しいと、言ってみればよかったのだ。
誰かに心を打ち明けて、助けを求めればよかったのだ。

それなのに、「どうせ分かってもらえないから」と
自分から壁を作っていた。

殻に閉じこもっていた。

傷つくのが、怖かったから。

そんな独りよがりで傲慢な私と、彼は、最初から
全然違ったんだ。

あの時、彼は「あえて何事もないように明るく話している」と、私は思っていた。

でも、もしかすると、彼にとってそれは、本当にただの、世間話だったのかもしれない。

彼にとってはとてもちっぽけな日常の一コマを、
私に思いつきで共有してくれただけなのかもしれない。

本当のことはわからない。

わかろうとする必要も、ないかもしれない。

あの時の私は、自分が何よりも嫌悪していた、
「相手の一部を見て、その人の全てを理解した気に
なる」人たちと、同じことをしていた。

今思い返すと、申し訳なさと、自分への苛立ちと、
あまりの器の小ささに、心底呆れてしまう。

彼も同じように、呆れていたのだろうか。

きっと、人の心の機微を誰よりも察知する能力に
長けた人だから、私のその余計な気遣いにも、
気づいていたのだろう。

そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
でも、どこかで、そのことに安心している自分も
いた。

もし、今また彼に会えたら。
私たちは、どんな話をするのだろう。

この数年間、あの頃とは比べものにならないくらい、心を揺さぶる出来事や、身を削るような経験を、
これでもか、というほど重ねてきた。

それはきっと、彼も同じはずだ。

私たちはそれを、どんな風に話すのだろう。

もしかしたら、そんなことは全く話さないかも
しれない。

最近読んだ本の話とか、これから行きたい国の話とか、そんなありふれた話をしていたら、あっという
間に夜が来てしまうかもしれない。


それでもいい、と思う。

どんな話でもいいから、もう一度、彼と話がしたい。

そこには変わってしまった二人がいるかもしれないし、全く変わらない二人がいるかもしれない。

だけど、変わっていてもいなくても、きっとその
時間は素晴らしいものになるだろう。

そのことだけは、間違いなかった。

私は今、ちゃんと、この世界を歩いているよ。

ときどき間違えることもあるし、ひどく傷ついたり、傷つけたりすることもあるけれど。

全力で、このままの私で、一歩一歩、歩いてる。

いつかまた彼に会えたら、嘘のない笑顔で伝えよう。
そう思った。

そしてきっと、この文章を、読んでもらおう。

彼がその時、どんな顔をするのか思い浮かべてみる。

「上手くなったじゃん」

そう言って、爽やかな風のように笑うのだろうか。

それとも、

「相変わらずメンヘラだねえ」

と、やっぱり笑って言うのだろうか。

その日まで、私はあと何回、文章が書けるのだろう。

淡い期待を胸に仕舞い込んで、私は今日も、

彼がくれたこの世界で、物語を、紡いでいる。

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