"義務感"から心を解放するために、「自分だけの決まり」をつくる。
何をしていても、自分の行動の源泉には"義務感"があるなと気づいたのは、ひとりで過ごすと決めて出発した、旅先でのことだった。
何をしていてもつきまとう"義務感"
わたしは「心をまっさらにして、自分のあるべき姿に戻る」ために、6日間ひとりで過ごそうと旅に出ることを決めた。
それなのに、旅先で食べるご飯を選ぶとき、「Instagramに投稿するならどちらが受けがいいか」という基準で考えてしまったり、
ぼーっと川面を眺めながらぐるぐると思考を巡らせて、「これはnoteに書けるかもしれない」と、気づいたことをメモに書き留めたりしている自分に気づいた。
それはほぼ無意識にやっていたことだったから、気づいて、愕然とした。
以前は「好きでやっている」と思っていたこれらの行動すべてが、今は義務感と切っても切り離せないものになっているような気がして、軽い絶望感を抱いた。
好奇心と、義務感の境目がわからなくなってしまっていた。
「何も考えない」と決めても、考えてしまう。
「目的やゴールを考えずに過ごす」と決めても、考えることを止められない。
自分でも意識していないのについやってしまうのだから、これは根深い問題だぞ、と思った。
そういえばこの頃、何をしていても根本には"義務感"があったのかもしれないなあと思う。
恋愛も仕事も趣味も、何もしていない時間でさえも。
誰かと一緒にいる時だけじゃなくて、一人でいる時さえ思考が"義務感"に絡め取られて、気付かぬうちに心が湿気を含んで、ずしりと重くなることが頻繁にあった。
「好きなだけでは一緒にいられない」という義務感
たとえば、人間関係。
誰かと会うとき、わたしはただ、目の前の人が好きだから、一緒にいたいから、居心地がいいから、会いたいと思う。だから、その気持ちのまま、会いたいと言葉にする。
だけど、社会人になってから「相手が何をしている人なのかを最初に聞く」ことや「自分の将来にとって、意味がある関係性になりそうか」で付き合う人を選ぶ場面を目の当たりにすることが、友達でも恋人でも、多くなってきていた。
それらは見えない重圧となって身体にのしかかり、気づくと自分の価値観とすり替わって「当たり前」であるような素振りをしているのだから、かなり厄介だった。
恋愛だったら、「好き」のその先に、付き合うとか結婚とか、そういう目的やゴールを見据えなきゃいけない。ただ自分が相手を好きなだけで一緒にいたら、相手の時間も無駄にしてしまって失礼だ。
友人関係だったら、自分のレベルではこの人と釣り合っていないだろうから、会ってもらったのはいいけど申し訳ないな。
そんなことを、無意識に考えるようになっていった。
自分が一緒にいることで、相手にとって迷惑がかかってしまうんだと思うようになってからは、ただ「好き」で人と一緒にいる自分に、罪悪感を抱くようになった。
特に相手から、目的やゴールを見据えた「好き」という感情を伝えられたときに、わたしは素直に「嬉しい」と感じるよりも、「申し訳ないな」という気持ちの方が大きくなっていくことの方が多かった。
次第にその感情に押しつぶされて、心が蝕まれそうになると、その相手とは、距離を置くしかなくなる。
だから、4月はほとんど人に会わなかったのかもしれない。
これまでの人生で、わたしは圧倒的に「誘う側の人間」だったけれど、こういった理由から人を誘うことが億劫になってしまって、いつしかぱったりとやめてしまった。
「常に何かを生み出さなきゃいけない」という義務感
意味のあることを考えたくなくて、ひとりでぼーっとしている時も、わたしはつい落ち着かなくなって、何かをしようとしてしまう。
ぽっかりと空いた時間を何もしないで過ごすことが、大の苦手。時間ができたら、「今、何をするのが一番効果的だろう」。そう考えるのが、すっかり思考の癖になっていた。
noteの更新、Instagramの投稿の作成。予定のない時間があったら、何かを生み出さなきゃ、と思ってしまう。
意図的に何もしない時間をつくっても、そこでぼんやり考えていたことが、「あっ、これnoteに書けるかも」と思うと、ついつい思考が何かを生み出すモードになってしまい、まったく休めない。
心を取り戻すためにひとりで旅に出ても、結局Instagramに挙げる写真を想定しながらお昼ごはんのお店を選んたり、その前後に行く場所を選んだり、バスの時間や街の雰囲気などを細かにメモしてしまう。だからスマホが手放せない。
わたしにとって唯一の救いだった、「本屋さんで本を選ぶ」ときもこの思考が浸食してきていると気付いたときは、「さすがにこれは、まずいかもしれない」と思った。
以前は心が動くかどうかだけで本を選んでいたのに、その時間が心やすらぐ時間だったのに。
今は「こういうところが自分の課題だから、この本を買おう」とか、「これはあの人が勧めていたから、読んでおかなきゃ」とか、義務感でしか本を手に取れなくなってしまっていた。
気づくとわたしの本棚は、どこかで見たことのある、誰かの本棚になり変わっていた。そのことが、さらに心を重たくした。
わたしはいつから、こんなに義務感に絡め取られるようになったんだろう。
気づいたときには、逃げ場がなくなっていた。
「何もしない」と言った人の言葉を思い出して
そんなとき、ある人の「いつも忙しそうだけど、そんなに何してるの?俺なんて、何もしてないよ」という軽やかな言葉と、そのからっとした口調に、数週間前心を救われたことを思い出した。
そのときわたしは、なんだかスカッとして、安心したのだ。
言われたとき、「自分は可哀想な人だと思われているのかな…」という考えが頭を掠めたのだけど、その人の真っ直ぐな瞳を見ていたら、そうじゃないことはすぐにわかった。
「何もしなくてもいいんだよ」と、言われているような気がした。
「あなたはそのままでいいんだよ」と、肯定されているような気がした。
そのときのことをふと思い出して、わたしは自分が何かに対して"義務感"を抱いているなと気づいたら、この言葉を思い出すことにした。
一種のおまじないというか、自分が進むべき道を教えてくれる、指針みたいな言葉になった。
"義務感"から心を解放する、自分だけの決まりごと
とはいえ、ただ心にこの言葉を留めているだけじゃ、どうにもならないほどわたしの「義務感問題」は根深い。
だったら、今度は自分で「行動の指針」になるような、自分だけの決まりをつくろう。そう思い立った。
これが誰かの役に立つかどうかは分からないけれど、わたしが「あ、今わりと心が義務感から解放されているな」と感じたことを、書き留めておく。
自分だけの3つの決まり:
①本屋さんで"目的のない"本を買う
②普段タブーにしていることをする
③無防備になれる人と一緒に過ごす
①本屋さんで"目的のない"本を買う
お気に入りの本屋さんに足を運び、「何の意味も目的もない、何にもつながらないかもしれないけれど、なぜか心惹かれる本」を買う。
表紙の装丁、たまたま開いたページで目に留まった一行、誰かが見たら「くだらない」と感じるかもしれないようなことを、熱を込めて綴っている文章など。
そういう「なぜか強く心惹かれた本」を、脳が何かをジャッジする前に、レジに持っていくことにした。
それは誰かがいいと言った本や、有名な人が書いた本、ベストセラーと書かれている本、などから遠ければ遠いほどいい。
誰かの基準じゃなく、自分の心の基準で「いいな」と思った本を、毎週一冊ずつ、お気に入りの本屋さんで(ここもかなり重要)手に取って買う。
それはわたしにとって、自分の本棚を取り戻す作業であり、心を一掃する作業でもあるんだろうなと思っている。
②普段タブーにしていることをする
たとえばベッドの上で洋服のまま寝っ転がって本を読むとか、朝からケーキを2個食べるとか、夕方の4時にラーメンを食べて、夜中にお腹が空いたらマドレーヌをつまんでみるとか。(実際に、旅先では全部実行した。)
最初はひとり部屋で寝っ転がっていても、誰も見ているわけじゃないのにお行儀良く横になっている自分に気づいて呆れたのだけど、次第に気にならなくなっていく。
普段は脂質を1g単位で管理しているところ、朝からケーキを食べたり、規則正しい食生活のルールを破ったりする罪悪感はものすごかった。
だけど一旦そのルールを破ってみると、その後は心の縛りをするりとくぐり抜けられるようになる。
そういう「普段、自分を律するために何気なく決めているルール」を一度すべて破ってみて、自分の心や身体の赴くままに過ごしてみることは、わたしのように呼吸をするレベルで義務感を抱いてしまう人にとっては、有効なのかもしれないなと思った。
(食生活については、あまり長く続けてしまうと健康に支障が出てくるので、長くても3日間くらいに留めた方がいいと学んだのだけど、、)
③無防備になれる人と一緒に過ごす
わたしは一緒にいる人にかなり影響されやすいタイプなので、自分がありのままでいられる時間を増やすために、「自分が無防備になれる人」と一緒にいる時間を増やすことにした。
食べているときの姿や、口が汚れてしまうことなどを気にせずに好きな食べものを選んだり、夜の公園で好きなだけブランコを漕いだり、くだらない話をしてもいいし何も話さなくてもいい、気ままな散歩ができる人。
「社会的には評価されているけど、話していてもまったく心が動かない人」や、「将来の関係性を見据えた確認作業、自分の人生にどんな損得をもたらすかを四六時中ジャッジしている人」とは、できる限り会うのをやめた。
今この瞬間、相手のことを好きで、そのまま好きだと伝えることができて、その時間を純粋に、一緒に楽しめる人とだけ会うようにする。
「何をしている人か」や、「何を与えてくれる人か(もしくは自分が相手に何を与えられているか)」を一切考えなくてもいいと感じられる人とだけ、付き合うことにする。
人間関係だと、そう簡単に割り切れることばかりじゃないかもしれない。けれど、誰かに迷惑をかけない範囲で、自分の心を守れるような関係を、改めてつくり直していきたいなあと思う。
***
「あえて何もしない時間をつくる」試みを経て、改めて自分の行動の根底には、この"義務感"が強く根を張っているということに気づいた。
この感情はなかなか手強いから、手放すまでにはきっと長い修行が必要だろう。
だからこそ、わたしはこれから「自分の心が義務感から解放されること」を見つけていって、ひとつずつ実践してみる、を繰り返していこうと思う。
自分の心が求めていることだけを素直に聞き取って、しなやかに生きていけるように。
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