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はじまりは、突然で。〜広島・竹原ひとり旅〜



「あっ、わたしは少し、ここに残って観光していきます。」



空港に向かうタクシーに乗り込もうとした瞬間、わたしの口からはそんな一言が飛び出していた。上司と3人で訪れた、広島出張の帰り道でのこと。


まさかこの一言が、忘れられない旅の幕開けになるなんて。この時は想像もしていなかった。


帰りの飛行機までの、たったの3時間。


そんなタイムリミットがあっても忘れられない旅はできるし、何より、旅とはこうして突然はじまるものだということを、わたしはこの時はじめて知った。


***



一昨年の秋。わたしは上司と3人で、はじめての国内出張をした。行き先は広島県の大崎上島という、瀬戸内海に浮かぶ小さな島。


飽きもせず、毎年訪れているほど「瀬戸内好き」なわたしにとって、この出張は願ってもない最高の機会だった。

大崎上島の海岸からの眺め。
波の音を聴いていると、心も穏やかになってゆく。



1泊2日の仕事が終わったお昼過ぎ、わたしたちは竹原港でフェリーを降りて、空港に向かおうとしていた。


だけどわたしは内心、このまま一緒に空港に向かうか、それともここに残って観光するか、フェリーに乗っている時から実はひとりで悩んでいた。


「国内旅行には、興味が湧かないんですよねえ。やっぱり旅行は海外ですよ」


と話す上司と、


「俺は、リゾート地で海を見ながらぼーっとする、みたいなの苦手なんだよね。つい予定を詰め込みたくなっちゃう」と笑う部長。


ふたりの会話を横で聞きながら、潮風を吸い込み、きらきらと光る瀬戸内海を眺める。


こんなに美しい場所、他にないのになあ。
わたしだったら、一日中この海を眺めていても、絶対に飽きない。







「じゃあ、タクシー呼んで、空港に向かおうか。」


彼らがそう言ってタクシー乗り場に向かおうとしたその時、わたしが口にしたのが冒頭の一言だった。



「あっ、わたしは少し、ここに残って観光していきます。」



その言葉は、ほぼ無意識に口を突いて出た。


幸い、わたしだけ彼らとは別の航空会社で飛行機の予約をしていたから、帰りの時間が1時間くらい遅かった。


わたしにはまだ、あと3時間の余裕がある。それなのに、空港で過ごして終わり、だなんてもったいない。せめて、お好み焼きくらいは食べて帰りたい。


昨日は上司とお客さんと一緒にいてあまり食事ができなかったし、今日中にやらないといけない仕事はもうないし、せっかくはじめての場所に訪れたのにこのまま帰るなんて、絶対に後悔する……!


「観光せずには帰れない」という確固たる決意が表情に滲み出ていたのか、彼らは特に何も聞かずに「そっか。じゃあ、僕たちは先に行くね。お疲れ様。」と言って、すっとタクシーに乗り込んだ。


案外あっさりとした反応で、少しだけ拍子抜けする。だけど、何も聞かずにここに残してもらえてよかった。あと3時間しかないけれど、ご飯を食べて、少し街を歩くくらいの時間ならあるはず。


2人を乗せたタクシーが見えなくなってから、さて、と小さく呟く。


タイムリミットは3時間。
ひとり旅の、はじまりだ。







***

「広島と言ったら、お好み焼きだろう」という安直な考えのもと、食べログでこの辺りのお店を調べる。


旅先での食事はなるべく失敗したくないから、無難に評価が高いお店に行くのがいいかなあ。お好み焼きを食べて、空港でお土産でもゆっくり見ながら、飛行機の時間を待とうか……と、ぼんやり考えながらタクシーを呼ぶ。


前日の朝5時から慣れないヒールで歩き回っていた足にそろそろ限界がくる。スーツケースの重みがじわじわと右腕を刺激して、さっき竹原港の海の駅でご褒美にと甘酒の大瓶を買ってしまった自分を小さく恨む。


利用する人が少ないのか、タクシーは電話をしてから5分足らずで到着し、パカっとドアが開く。よかった、思ったより早くきてくれて助かった。


「すみません、ここのお店に行きたくて……」


さっき保存しておいたお店の食べログ情報を運転手さんに見せる。


その時、なんとなくふと思い立って、「あの、お好み焼きを食べたいんですけど……ここ以外で、おすすめってありますか?」と聞いてみる。


地元の人しか知らない、本当にいいお店はタクシーの運転手さんに聞けってよく言うし、何か教えてくれたらラッキーだな、くらいの軽い気持ちだった。


すると運転手のおじちゃん(おじさん、ではなく「おじちゃん」という呼び方がしっくりくるような、豪快で気さくな人だった)は、こちらの予想以上に真剣に悩み、ゆっくりと言葉を発した。


「うーん、お姉さんが行きたがってる "御幸" は安くてうまいんやけど、この辺でおすすめなのが、もう一個ある。"ほり川" ってとこで、御幸より少し高いんやけど、生地に酒粕が入ってて、それはもう……うまいんや。」


誰にでも話しているわけじゃないんやで、とでも言いたげな表情で、おじちゃんは秘密を打ち明けるようにお店の名前をわたしに教えてくれる。


生地に酒粕が入ってるって、絶対おいしいやつだ……
どんな味なのか、気になる……


しかも、こんな愉快な地元のおじちゃんがおすすめするお店なんて、いいお店に違いないだろうし。これはもう、「ほり川」に行くしかないんじゃない……?







「ちなみにやけど、この後の予定は?」


わたしが「ほり川」に心惹かれていると、おじちゃんが聞いてきた。


「特に何もないんです、ご飯を食べたら16時に空港に向かおうと思ってて…」と伝えると、「よし、わかった!」と、何かを閃いたように、突然顔をパッと輝かせる。


「今から、駅にその大きい荷物置いて、ほり川行こう。それ、重いやろ?ほり川やったら、まわりに観光できるとこも多いし。竹原の町、1〜2時間くらい散策してたら、ちょうど16時前のバスがくる。それに乗って空港行くのはどうや。お姉さん、カメラ好きみたいやし、きっとこの町並みも好きやと思うで。」


どうや、と得意げにこちらを振り返るおじちゃんの「ニヤリ」という文字が見えるような笑みを見て、「もうきっと、それしかない」と確信する。ここまできたら、流されてみよう。なんだか面白くなってきた。


「じゃあ、そうしましょう。お願いします!」


荷物が重いことも、カメラを持っていることも、特に何も言わなかったのに気づいてくれたおじちゃんの細やかな気遣いに感動したこともあって、わたしはすっかり安心し切っていた。


旅先で乗るタクシーの運転手さんの引きはわりといい方だと思っていたけれど、ここまで良い人に巡り合ったのは、今回がはじめてだった。それだけで、なんだか既にいい旅をしているなあと嬉しくなる。


わたしが駅のロッカーに荷物を詰めている間、空港へ向かうバスを何も言わずに予約し、お好み焼きのお店にも営業時間を確認してくれていたおじちゃんは、にこにこと笑いながら「楽しんでな〜」と送り出してくれた。


お支払いをするときにちらっとネームプレートを見てみると、「中尾」と書いてあった。中尾さん、と心の中で呟き、その名前を胸に刻む。中尾さんに出会えてよかったなあ。


普段は大崎上島に住んでいると言っていたから、次に出張で訪れたら、お礼を言おう。そう心に決めて、タクシーを降りた。







中尾さんおすすめの「ほり川」に入ると、地元の人らしきお爺さんと、出張で来たと思しき30代くらいのスーツ姿の男性2人が、奥でお好み焼きをつついていた。


昔の日本家屋のような趣の店内は、思ったよりも奥に広いようだった。もうお昼時を過ぎているからか、お客さんは少ない。これならひとりで思う存分、お好み焼きを味わえそうだとほっとする。

ほり川の店内。奥にも席があって、思ったより広い。



メニューを開いてしばらく眺めていると、「メニュー、分かりますか?」と若い男性の店員さんが聞きに来てくれる。


「はい、ええと、たぶん分かります」という曖昧な返事をしてしまったわたしに、親切なお兄さんは丁寧にメニューの内容を説明してくれる。


結局「一番おすすめです」と言われた、生地に酒粕が練り込んである広島風お好み焼きと、壁に貼ってあって気になってしまった酒粕アイスを注文した。


もしかしてここ、自分でつくるスタイルなのかな、だとしたらちょっと不安だな……と内心ハラハラしながら待っていると、間もなくして、ふっくらと丸い広島風お好み焼きが到着した。

ふっくら、ぽってり、な広島風お好み焼き。



よく考えたら今までお好み焼き屋さんにひとりで入ったことはなく、大きな丸い塊を目の前にして、ひとりで完食できるか一瞬不安が過る。けれどそんな心配は、一口食べたらすぐに吹き飛んでいってしまった。


甘めのソースに青のりの爽やかな香り。ふわふわの中に、もっちりとした食感が残る生地。中に入っている麺は、普段食べているものよりも柔らかめなのに、茹ですぎているのではない、心地よい柔らかさなのが不思議だった。


噛んでいると時折ふわっと酒粕が香って、たしかにこれはおいしいな、さすが中尾さんが推していた味だ、と心の中で彼に拍手を送る。無我夢中で箸を進めていると、気づいたときには大きな円の4分の3を平らげていた。







最後の一欠片をお皿に盛っていると、大きめの湯呑み茶碗のような器に、盛り付けられた酒粕アイスが運ばれてきた。上には何やら、生成色のお煎餅のようなものが刺さっている。

酒粕アイス。どうして「ほ」じゃなくて「は」なんだろう。



お好み焼きを急いで食べ、溶ける前にアイスを口に運ぶと、さっきまでのお好み焼きの生地から感じ取れた酒粕の、何倍もの香りが勢いよく鼻を抜けて口いっぱいに広がった。



なんだこれは。おいしい。おいしすぎる……!



アイスは水分が多く、さらりとしていて舌の上ですっと溶ける。それでいて、歯を当てると程よくシャリ、と音を立てるくらいの食感も残っている。


ソースの甘くてこってりとした味の後に、このアイス。爽やかで、お好み焼きの後のデザートにぴったりだ。もしかしてわたしは、完璧な組み合わせを選んでしまったかもしれない。


すっかりご機嫌になったわたしは、さっき中尾さんに「京都の清水寺みたいな景色が見えるから、登ってみ!」と言われた、お店の向かいにある石段に向かってみることにした。

ほり川の外観。古い町並みに調和している。



階段は、下から見ると急で段数も多く見えたけれど、いざ登ってみると物足りないくらい、あっけなく優しい階段だった。


だけどたしかに、眺めはいいかもしれない。


頂上で竹原の瓦屋根の町並みを見渡していたら、コツン、コツンと不思議な音を立てて、スポーツ用のウェアを着た男性が階段を登ってきた。


初めて聴く音だな、と思ってちらっと横を見ると、「この辺の方ですか?」と声をかけられる。わたしは見知らぬ人に声をかけられやすい。おまけになぜか、旅先でもよく地元の人と間違われて道を聞かれたりする。


「いえ、昨日から出張で来ていて。ここに来るのも、初めてなんです。」


見知らぬ人と、程よい距離感で当たり障りのない会話をするのも慣れていたから、いつものようにそう返す。


しばらく旅人同士の何気ないやり取りをして、束の間の沈黙が訪れたのを機に、「じゃあ、わたしはこの辺りを散策してきますね。」と言って別れを告げた。

映画の舞台にもなった石段。
たしかにこれは、思いっきりジャンプしたくなる。



階段を降り、竹原町並み保存地区をぶらぶらと歩いていたら、「写真、撮りましょうか?」と後ろから声をかけられる。


振り向くと、さっきのお兄さんだった。


「いえ、自分の写真はちょっと恥ずかしいので……」


と笑って返し、軽いお辞儀をして先へ行こうとすると、彼は自転車を押しながら、歩き出すわたしの横に並ぶ。


そして話の流れで、わたしの帰りのバスの時間まで、この辺りを一緒に散策することになる。これも何かの縁かなあ、まああと1時間くらいだし、変な人ではなさそうだし、いっか。


中尾さんに出会った時からわたしの予定は見事に覆されていたから、もう何があってもそこに乗っかってみよう。ひとりで見知らぬ地にいることで、心は大きくなっていた。

石畳の道がつづく、竹原街並み保存地区。


町をぶらぶらしながら、さっき中尾さんから仕入れたばかりの、この町の歴史や映画の舞台になったことなんかをまるで地元民かのようにお兄さんに説明していると、なんだかこの町に愛着が湧いてくる。


わたしが町にまつわる小話をするたびに、彼は「へええ、そうなんだ。」「ななみさん、詳しいね。すごいなあ。」と、素直に感心してくれるのがおかしかった。


とても小さな町なので、お店や撮影スポットに立ち寄っていると、何度か同じ人たちに出会す。


そのたび、まるでご近所さん同士のように自然と会話をしてしまうのが、なんだかほっこりして、心がゆるりと穏やかになった。


開いていた引き戸の隙間からみえた風景。


一通り町を歩いて、近くの道の駅でお土産を購入したわたしたちは、バスが来るまでの残りの30分間、駅前の小さな喫茶店で時間を潰すことにした。


彼は自転車でしまなみ街道を渡って、今日竹原に到着したということだった。普段はトラックの運転手をしていることや、自転車が趣味であること。


仕事の内容、生い立ちや今まで住んだことのある場所、休日の過ごし方。


重なる部分が何ひとつない2人が、こうして小さな町の古い喫茶店で向かい合っていることが、なんだかとても不思議だった。


「クリームソーダって、こんな感じなんやねえ。俺、飲んだことないや。」


珍しそうに、しゅわしゅわ音を立てる緑色の液体を眺める彼の手元には、まだ外は暑いのに、ホットコーヒーが置かれていた。

竹原駅前にある喫茶店「潮風」の
ぽてっとした姿が愛らしいクリームソーダ。


「ななみさんも、この町に泊まっていけたらよかったのになあ。もう帰っちゃうのかあ」


ひとしきり残念そうに口にする彼をクリームソーダ越しに眺めながら、一期一会ってこういうことかあ、なんて思ったりする。


彼はとてもいい人だ。けれど一晩語り合えるような話題は、ふたりの間には何もないような気がした。


ここに来ることがなかったら、人生できっと一度も交わることのなかった人。旅のおもしろさは、そういう人とふいに出会ってしまうことなんだろうなあ。そして、たぶんこの先彼にまた会うことは、もうないんだろうなあ。


なんだか少しだけしみじみとした気持ちになって、グラスの底に残ったバニラ味の泡を、ストローで思いきり吸い込んだ。







別れ際、「僕もこれから、インスタやってみるよ!」と意気揚々と目の前でアカウントを開設していた彼は、その後旅先で撮った写真を、自身のアカウントに載せたりしているのだろうか。


多分していないのだろうなあ、と想像してみるけれど、今となっては彼の名前を忘れてしまったので、確かめることはできない。


きっと彼は今でも、平日はトラックを運転して、休日は自転車で颯爽と走っているのだろう。

帰りの飛行機にて。
上から眺める瀬戸内海も、やっぱり美しい。



「旅」というものを久しくしていないなあ、とふと思い、昔の写真を遡っていたら、この時の写真が出てきた。眺めていて、やっぱりあの時ひとりで残ってよかったなあとしみじみ思う。


あのまま一緒に帰っていたら、竹原の町のことも知らなかったし、酒粕の入ったおいしいお好み焼きをひとりで頬張ることもなかったし、中尾さんやお兄さんと出会うこともなかった。


旅はいつも、こうして突然訪れる。それが旅のおもしろさであり、だからわたしは、やっぱり旅がやめられないのだ。 







【おまけ】大崎上島で出会った風景

吸い込みたくなるほど、透き通っている。
昔ながらの醤油ラーメン。
無農薬のレモン。爽やかでおいしかった。



旅の様子はInstagramにまとめています𓂃𓂂𓏸

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