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手放した灰色の世界は、本当はいつだって色づいていた。



今日こそ、彼にちゃんと別れを告げる。

何度心の中で呟いたかわからないこの言葉を、もう一度心の中で唱え、エスカレーターを足早に降りていく。

彼の新生活がはじまる前に、わたしはこの4年間の2人の関係を、今度こそきちんと終わらせるんだ、と決めていた。

決して嫌いになったわけじゃない。
愛情も敬意も、変わらずある。

だけどわたしたちの目の前には、「2度目の遠距離」という、大きな壁が立ちはだかろうとしていた。

そして、ここ数ヶ月間のわたしには、その壁を「彼ともう一度一緒に乗り越えたい」と思う積極的な気持ちも、心と身体のエネルギーも、すっかりなくなってしまっていた。




待ち合わせ場所は、いつも通りの下北沢駅、井の頭線の改札前。

「前の用事が押しちゃったから、5分くらい遅れそう。」

「わかった、待ってる。」

そんなやり取りなんてもう何十回もしていたし、いつもは彼がわたしを待っていてくれることなんて当たり前のように思っていた。

なのに今日は、なぜかその「待ってる」という言葉から優しさがじわりと染み出してきて、わたしの決意は早くもぐらりと傾きそうになる。




「ごめん…!お待たせ。」

目の前には見慣れた、締まりがなくふにゃっと笑う、犬みたいな顔の彼がいた。

わたしを心の底から信頼し切っていて、早く撫でで欲しくて仕方ないみたいな、緩みきった表情。

ここ数ヶ月はこの顔を見るのが苦しくて、どうしてこの人はこんなにも無条件にわたしを好きでいてくれるんだろう、と冷めた気持ちすら抱いていた。





なのに今日はこの顔すらも愛おしく思えて、ついこちらから手を伸ばしてしまう。

「これ、新しい服?いい色だね。」

だけど手には触れずに、コートの素材を確かめるように、左腕に触れる。

「うん、このコートは70%オフで、こっちのニットは60%オフだったんだ。」

得意気に笑って指差す彼の様子を見つめながら、いつもなら「そんな値段の話なんてしないでよ」と苦い表情で彼を見てしまっていたのに、

「へえ、すごい。…ほんと、買い物上手だね」

と、今日ばかりは素直に、感心して純粋な感想が口をついてしまう。





ああ、だめだ、これじゃ。

こんなんじゃ、別れ話なんて、切り出せない。
でも、今日は、もう、「今回も言えなかった…」なんて自分を責めながら、帰り道友達に後悔LINEをする自分からは、卒業するんだと決めていた。

決めていたから、頭の中で、昨日の夜、何百回も想像していた「別れ話を切り出すまでの流れ」を反芻する。





「ねえ、ここのカレー、下北のお店の中で一番好きかも。」
「あそこのインドカレーも、なかなかおいしかったよねえ。」

いつも通り変わらない、わたしたちの一日が流れていく。

その間中、わたしは別れ話を脳内で予行演習する。

しながらも、「ああ、この距離で歩くことはもうないんだろうな」なんていう想いがふっと浮かんできたり、「やっぱり一緒にいて落ち着くし、尊敬もできるし、こんなに愛情を注いでくれる人、他にいないだろうな」なんていう想いで、目の前が滲んだりした。

その度わたしは、だめだ、今日こそは言うんだ、と、強く自分を奮い立たせた。





よし、絶対に、ここで言うんだ。

そう決心したのは、彼と一緒に何度も来ている、クラフトビールのカフェバーの、テーブル席に隣り合って座った時だった。

「暇だから、動画でもみる?」

とか、

「あ〜お腹すいた。フライドポテト買ってこようかな。」

とか言って気ままに動く彼の様子をうかがいつつ、言うべきタイミングを見計らう。

よし、このビールを飲んだら言うんだ。

一口飲む。




…これを結局、10回は繰り返したと思う。

その間にも、彼は新生活に向けて、一緒に家探し手伝ってくれる?とか、どんな部屋がいいかな?とか、前向きな2人の未来について想像を膨らませている。

ああ…うーん、とか、そうだねえ…とか、わたしがそんな煮え切らない返事をしていたら、「興味ないの?」と、少し拗ねたような顔をされる。

「いや、そういうわけじゃないんだけど…」

ますます煮えきらなくなって、言うならここしかない、と思った。




その時、

「あっ。」

彼が目を丸くして、驚いたような、嬉しそうな表情で、こちらを見つめてくる。

わたしが身体の横に置いていた左手の上に、たまたま彼の右手が重なった。

こうして書いてみても、改めて、「え、それだけ?」という感じなのだけど、この時の彼は、付き合いたての彼女と初めて手を繋いだ時のような顔をして、こちらを恥ずかしそうに見つめていたのだ。




その表情を見て、「え」、と思う。

いつもなら、この「え」は、限りなく冷めた感情に近い。だけど、今日は違った。

「え、この人、本当にわたしのことが好きなんだな…」という、感動に近い感情だった。

何か神聖なものでも目の当たりにしたかのような、そんな気持ちになって、急に不安が込み上げた。

わたしがこれから話そうとする内容なんて、全く想像もしていないし、わたしのことを、一切疑ってもいない。きっとそれは、これからも同じなんだろうな。

それが、久しぶりに重なった手のひらの体温からゆっくりと伝わってきて、わたしの決心は、音を立てて崩れ落ちてしまいそうになった。





ああ、だめだ、これは…

言えない。こんなんじゃ言えない。どうしよう。

本格的に焦ったのと、言わなきゃ、という極度の緊張感がピークに達したのとで、わたしの両目からは、気づいた時には静かに涙が溢れていた。

悟られないように、右を向く。

店内の様子を見ているように見せかけたかったのだけど、さすがにもう4年も一緒にいたらわかるのか、左側から、彼がわたしの顔を覗き込んでくる。

「え、寂しいの?…あ、じゃあ、かわいい犬の動画みる?それとも、おいしそうなお寿司の写真でも探す?ちょっと待ってて。」

またそんな的外れなことを聞いてくる彼に、ここ数ヶ月間の冷めた気持ちが、一切吹き飛んでしまった。

そうだ、こんな彼だから、わたしは好きになったんだった。

久しぶりに彼と一緒にいて、心がじんわりとあたたまる感覚を思い出した。

思い出したら、急に、勇気が湧いた。
言うならここだと、咄嗟に思った。





一生懸命動画や写真を探してくれている彼に、わたしは涙目で笑いながら話しかける。

「あのね。最近、考えてたんだけど。」

最後の一口を飲み干して、ついに言葉が口をついた。

「春から、わたしたち、一度友達に戻った方がいいかなって、思ってたの。」

その言葉が彼の耳に届いた時、横顔が瞬間で硬くなるのが見て取れた。

しばらくの沈黙。

そして口を開いた彼は、こう言った。

「うん。実は俺も、同じことを思ったことがあったよ。でも、これを言ったら中途半端じゃんって、怒られると思ってた。」




なんだ。同じことを、思ってたのか。

「でも、俺たちって、友達だった期間ないじゃん。友達関係って、何するの?今とどう違うんだろう?」

「うーん、普通にご飯とか行ったらいいんじゃない?」

「一緒に飲みに行くけど、手は繋がない関係?そんなの、できるかな。」

「そうだねえ、でも、世の中には友達と恋人っていう、2種類しかないわけじゃないし。関係性なんて、当事者同士で決めたらいいんじゃない?割り切れる関係ばっかりじゃないしさ。」

「うーん…まあそれもそうなのかなあ。じゃあ、次に会う時、練習する?友達の、練習。」

「そうねえ。じゃあ、やってみようか。」




話してみたら、思ったより、話がどんどん前に進んで、戸惑うほどスムーズに色々なことが決まっていった。

何より、自分の心に抱えていた鉛のような想いを口にできたことで、わたしの心は朝よりもうんと軽くなった。

そして彼の気持ちも聞くことができて、安心した。わたしだけじゃなかったんだ、と。




だけど、

「まあ、これはもう少し時間をかけて話し合おうか。…こんな話、してくれてありがとうね。俺もしようと思ってたけど、結局エネルギーがなくて、言えなかったから。」

彼が俯いてぼそっと呟く横顔を見て、ああ、どうしてわたしはこの人に別れを告げなきゃいけなかったんだろう、とぼんやり思う。

そこまでして、「今は見えていない自分の可能性」を探しに行きたいのかな、と、あまりの自分の浅はかさと強欲さに、初めて気づいて泣きたくなった。




わたしは本当に、この人を手放してもいいのだろうか。

こんなの、典型的な「失うかもしれないと思うと、急に大切に思えてくる」現象だとわかってはいた。

けれど、こんなにも自分は、目の前からいなくなるとわかった途端に相手のことを愛おしく思ったり、大切だと感じたりするのか、と、あまりの自分の感情の稚拙さ、単純さに、くらくらしてしまった。




「そろそろ行こっか。」

そう言って立ち上がり、お店の外に出る。

「友達だったらさ、もう少し距離空けて歩くかな?このくらい?」

「友達とだったら、今日みたいなお店行かないよね。もっと汚い居酒屋とか?」

「え〜それは嫌だな。友達とでも、カフェくらい行くんじゃない?」

「いや、行かないでしょ。意識してる相手としか行かないって。」




そんな会話をいかにも「何気なく」するわたしたちは、次に会う時はもう、この距離で違和感なく歩いているのだろうか。

今は近くにあるこの手に触れることはもう、もしかすると、一生ないのかもしれない。

それでも、彼を手離さなきゃいけないんだろうか。もっと先延ばしにすることは、できなかったのだろうか。

せっかく自分から大事な話が切り出せたのに、わたしの心は寂しさと不安でいっぱいになって、今すぐにでも、数分前の発言を取り返したい衝動に駆られていた。




…だけど。

きっと、わたしの決断は、間違っていなかった。

どんな選択をしたって、わたしはきっと、そう思える。わたしだけが、自分の選択を肯定することができるのだから。

きっと今日この日を、「あの時、ああしていてよかった」と、思える日がくる。

そう思えるように、これからの日々を過ごしていくんだ。

わたしは、絶対に、大丈夫。





「じゃあ、またね。」

いつもなら「気をつけてね」と手をぎゅっと握ってくる彼の右手が、頼りなく宙をふわっと舞う。

わたしも軽く右手を挙げて、「うん、また。」と、できる限りそっけなく返す。

辺りが途端に、闇に覆われる。

足早に改札を抜けて、家路を急ぐ。

頬に当たる空気が冷たい。

涙が、止まらない。




ああ、わたしは、本当に、馬鹿だなあ。

今日、この話をすると決めていなかったら、きっと今日一日で感じた幸せや愛情は、いつものように見慣れた日々に埋もれていたはずだ。

それが今日は、すべてに、色がついているのがわかった。

いつだってきっと色はついていたし、わたしが目を向ければ、きっとその色を見るのは難しくなかったはずなのに。

それなのにわたしは、その色とりどりの愛情に目が慣れて、目の前の景色が薄暗い灰色にしか、見えていなかったのだ。




わたしは本当に、どうしようもない人間だ。

そう心の中で呟きながら、出会ってから今日まで、一瞬たりとも欠かさずに受けてきた愛情を、痛いくらいに噛み締めていた。

そして、いつも待ち合わせ場所に遅れて到着したわたしを見た瞬間、犬のようにへにゃっと笑って幸せそうな表情をする彼を、心の中で、ぎゅうっと抱きしめた。

もうこの先二度と会うこともないかもしれない、わたしの一番、大切な人を。

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