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彼はまだ、あの月の名前を覚えているだろうか


『別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。』


川端康成の小説の有名な一説。


本来なら、わたしが彼に花の名前の一つも教えておきたかったところなのに、むしろわたしは、彼に教わった月の名前が、今でも忘れられずにいる。


月を見るたび、思い出す。


これは、月によって導かれた、ふたりの2度目の恋のお話。



***



2019年、夏。


わたしは日曜日の昼下がり、京王線の各駅停車に揺られていた。


中途半端な時間だったからか、人はまばらで、週末の午後特有の時間を引き延ばしたような、だらりとした空気が流れていた。


席には座らず、ドアの前のL字型の隅にもたれて、小説の世界に入り込む。


この日だって、なんてことない平凡な1日に、なるはずだった。




けれど次の瞬間、わたしの運命は大きく変わった。




「明大前。明大前です。」


車掌さんのアナウンスが聞こえて、向かいの扉が開いた瞬間。


ふと何気なく目線をそちらに向けると、わたしの視界に彼の姿が飛び込んできた。


「えっ……」


そのときのわたしたちは、きっと同じように間の抜けた顔をしていて、同じように「こんなこと、ある……?」と、思っていたことだろう。


わたしの目の前に現れたのは、1年前に別れを告げた、恋人だった。





わたしたちはお互いの顔を正面から見ることができずに、


「…久しぶり。」


「うん……驚いたね。」


「そう、だね……。元気?」


「まあ、変わらず。」


なんて途切れ途切れの会話を、小声で続けた。


照れ臭さや懐かしさ、優しさや切なさが、胸いっぱいに広がっていく。1年前までの彼との日々が、今にも鮮やかに蘇ってきそうだった。

だけど、再会が突然なら別れも突然で、話した時間は彼が降りた笹塚駅までの、ほんの数分の間だった。




生きていると、こんな偶然も、あるんだなあ。




このときはそんな風に、運命のいたずらを面白がる気持ちのほうが、強かった。


けれどこれが単なる偶然ではなくて、「運命」なのかもしれないと思いはじめたのは、彼があの日、月の名前を教えてくれたからだと、今では思う。



「久しぶりに、ご飯行かない?」


そんな連絡がきたのは、彼が電車を降りた、すぐ後だった。


わたしにはそのとき他に好きな人がいて、「彼ともう一度恋人に戻る」という選択肢は、ほぼゼロに近いと思っていた。


彼のほうはそうじゃなくて、まだわたしに対して気持ちが残っている、というのは人伝に聞いて知っていたから、ほんの少し、返事に躊躇った。


だけど結局、その頃わたしがいちばん熱中していた「ポルトガル料理」を食べに行こう、という誘いにつられて、わたしは「いいよ」と返事をしてしまった。



2週間後、改めて正面から見る彼は、あの頃よりも少し背筋が伸びていて、相変わらず、なんの形かわからない模様のくたっとしたシャツを着ていた。


照れ笑いを押し殺すように口をぎゅっとつぐんだ表情には見覚えがあって、「あ、この人は今、すごく喜んでいるんだな」ということが、すぐにわかった。


2年間も一緒に過ごしていると、こういうちょっとした表情や仕草で、相手の考えていることが一瞬でわかる。


彼と別れて1年間、片想いばかりでその感覚すら忘れていたわたしは、それだけでなんだか安心感を抱いてしまい、ふいに泣きそうになった。



ポルトガル料理のお店は、思ったよりも高級感が漂う、証明が落ち着いた、色鮮やかなタイルとキャンドルの灯りが印象的なあたたかい空間だった。


お互いに、はじめて口にする料理ばかりで、「これも頼もう」「あれも気になるね」なんて口々に言いながら注文しているうちに、あっという間に目の前のテーブルが料理でいっぱいになっていた。


「おいしかったねえ。」


「次は実際に、ポルトガルに行きたいなあ。」


そんな会話をしながらお店を後にする頃、わたしはこの日、最初に彼と顔を合わせたときから確実に、自分の気持ちがあの頃に少しずつ戻ってきていることに、なんとなく気づいていた。


それは、甘くて濃厚で度数の強い、ポルト酒を飲みすぎたせいかもしれなかった。


思い出はいつも、こんな味をしていたっけ。

そんなことをぼんやりした頭で考えながら、わたしたちはどちらからともなく「少し歩こうか」と言って、コンビニで缶ビールを買い、代々木八幡から下北沢まで歩くことにした。



夏のはじまりで、気温は日中よりも下がっていたけれど、肌にしっとりと湿った空気が貼りつくような夜だった。


あたりはしんと静まり返って、所々から民家の明かりが漏れている。


それ以外に光はなく、わたしたちはふたりきりで、このまま暗闇に吸い込まれてしまいそうだった。

そうなってもいいかなあ、なんて思っていると、彼は唐突にこんなことを口にした。



「臥待月って、知ってる?」



「ふしまちづき…?はじめて聞いた。」



「月が出るのが遅くて、横になって待つほどだ、っていう意味なんだって。昔の日本人は、床に伏して、月が出るのを待つ、っていう心があったらしいよ。」



「へえ。はじめて聞いた。なんだか、切ないね。」



こういう話が大好きなわたしは、すぐに「臥待月」という言葉をを心にメモする。



「今日は雲で隠れてるけど、もう少ししたら、見えるかなあ。」



遠くの漆黒を見つめてそう言う彼の、横顔を見る。



すると、



「やっぱり俺は、君のことがいちばん好きだよ。もし、やり直せる可能性が、少しでもあるなら……もう一度はじめから、ちゃんと付き合いたい。」



さっきまで月の見えない空を見つめていた彼の瞳は、わたしのほうを向いていた。


あまりにもまっすぐに、真剣な表情で見つめられて、その力強さに戸惑ってしまう。



「…少し、考えさせてもらっても、いいかな。」



その日はそう答えることが精一杯で、雲に隠れてぼんやりと淡い光を放っていた月と、彼の言葉だけが、ぐるぐると頭の中を駆け巡って、なかなか寝付けなかった。



その数週間後、わたしは社会人になってはじめて、大学時代に所属していたサークルのライブに出演した。


その日は彼も在校生として出ることが決まっていたらしく、久しぶりにボーカルを務めると聞いて、少しだけでも観てみようかな、と思っていた。


彼と付き合っていた頃も、わたしはステージに近いところから彼が演奏している姿を見るのが苦手だったことを思い出す。

今回も、なるべく遠く、会場の後ろの柱の影から、彼の姿を見守ることにした。



「次が、最後の曲です。これは、僕がいちばん、好きな曲です。聴いてください。」



「ハヌマーン」というバンド名くらいは知っていたものの、曲自体はあまり聴いたことがなくて、「どんな曲なんだろう」と興味本位で歌詞に耳をそばだてる。


次の瞬間、突然耳に飛び込んできた歌詞に、わたしは全身が動けなくなるような、雷にでも撃たれたかのような感覚に陥った。


"臥し待ち月が出てるからでしょう? やけに叙情的になってしまうのは"



その歌詞を聴いて、すぐにわかった。


これ、あのとき彼が言ってた、月の話だ。


かすれる声で絞り出すように歌う彼の、スポットライトを浴びて静かに煌めきを放つ横顔。


その映像とその歌詞が、はっきりと全身に刻み込まれて、わたしはそこから動けなくなってしまった。



その夜、ライブの打ち上げが終わって家に帰ると、早速その曲がなんという曲なのか、覚えている限りの歌詞を検索画面に打ちこんでみた。


すぐに曲名が表示される。


彼がライブで歌っていたのは、ハヌマーンの「アパルトの中の恋人たち」という曲だった。


もう一度、改めて曲を聴いてみる。


彼の歌声によく似た(彼のほうが似せているのだろう)、甘く切なくかすれた声が、両耳に滑り込んでくる。


歌詞を検索して、今度はそれを目で追いかけながら聴いてみる。


すぐには意味が分からなくて、もう一度、再生ボタンを押す。


それを何度も繰り返しているうちに、わたしの目には、なぜか涙が溢れていた。



3年前、文化祭の打ち上げで、飽きることなくふたりで話し続けた夜の公園。


1ヶ月記念日にもらった手紙が嬉しくて、何度も何度も読み返しては涙したこと。


夏は必ず江ノ島に行って、陽が落ちるまで海を眺めていたこと。


わたしがライブで歌うとき、周りの視線なんて気にせず、延々と写真を撮り続けていたこと。


生きる意味を見失っていたわたしに、たくさんの希望をくれたこと。


ひとりぼっちだったわたしを、大きな愛で包み込んでくれたこと。


それなのに、距離が離れて環境が変わって、お互いに精一杯で、気づくと愛なんてすっかりなくなってしまっていたこと。



あの頃、月が出るのを待ちきれなくて、手放してしまったのは、わたしのほうだと思っていた。


だけど彼は彼で、待っていたのかもしれない。後悔していたのかもしれない。


はっきりとした理由はわからないけれど、この曲が身体全体に染み渡って、涙が止まらなくなって、わたしは誰かを恋しく思う気持ちを、数年ぶりに思い出していた。


離ればなれになることの辛さを、全身で受け止めてしまわないように。


完全に分かり合えない寂しさで、身を砕くことがないように。


あの頃のわたしは、「愛がなくなった」と思い込んでいたけれど、本当はなくなったんじゃなくて、自分の感情に蓋をしてしまっていて、見えなくなっていただけだ。



「今日の曲、アパルトの中の恋人たちっていうんだね。すごく、よかった。伝わったよ。」


まだ止まらない涙を堪えながら、彼にそうメッセージを送る。



「ありがとう。…ずっと、聴いてきたんだ。」



彼からはすぐに、返事がくる。



「今日は、月が出ているね。」



「うん。あと少しで、満月だね。」



窓を開けて、漆黒の空を見上げる。


少し欠けた卵色の月が静かに輝き、こちらを照らしている。



「月が、きれいだね。」



そう言い合える人が、この世界にたったひとりいるだけで、こんなにも心強い気持ちになれるんだなあということも、わたしはこの夜、久しぶりに思い出していた。



***



人生で2度、同じ人と、恋をすること。


そんな奇跡があるものか、とあの頃は思っていた。


彼はあの再会を、後に「運命だと思った」と言った。


そのときは笑って流してしまったけれど、どこかでわたしも「そうだったらいいな」と思っていたことを、あのとき彼に伝えておけばよかったのかもしれない。




彼には、たくさんのことを教えてもらった。


写真も、映画も、音楽も、月の呼び名のことも。


だから、わたしの人生には、彼の色がそこかしこに潜んでいる。


それはもう、「彼から教えてもらった」ということを忘れてしまうくらい、ごく自然に、日々にすっかり溶け込んでいる。





わたしは花の名前一つ、彼に教えることができなかった。


今の彼の生活のどこかに、わたしの色が一つでもあったらいいなあなんて思うのは、単なる傲慢かもしれないけれど。



***



今、この文章を書いていて、「臥待月」と久しぶりに検索してみた。


すると、今回はじめて知ったことがあった。


臥待月が見えるとされる日は、わたしたちがはじめて付き合うことになった、記念日だった。


もしかすると彼は、その日をずっと、待っていたのかもしれない。


月が、いつかまた、出る日のことを。


また一緒に空を見上げて、未来に想いを馳せる日のことを。


こんなことにも気づけなかったわたしに、彼は世界でもっとも美しい、呪いをかけたのかもしれない。





明日は、満月らしい。



彼はまだ、あの月の名前を覚えているだろうか。




※この小説は、「新しいお月見」コンテストに応募させていただくために書いた文章です。


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