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切なさは捨てずに、怒りは味方に


もしかしたら、わたしには「怒り」という感情が必要
なのかもしれない。

と、最近思うようになった。


わたしは「怒り」という感情との付き合い方がいまいち
よくわからなくて、今までの人生でも、あまり関わらないようにしてきた。

「怒り」は暴力的で、人を傷つけて、コントロールが
できない、恐ろしい感情だと思ってきた。

たまに、「怒り」が自分の中で芽を出した瞬間に気づく
と、慌ててそれを鎮めようと、何度も頭の中で深呼吸した。

けれどそれを何度も繰り返していると、日々少しずつ
溜まっていったそれが、自分でも抑えられなくなって
しまい、ついに大爆発する、ということも、今までに
何度かあった。

自分自身、この感情をどう扱えばいいのか、大人になった今でもわからないし、できることなら全力で避けて生きていたい、と、思っていた。


だけど最近、この考え方に変化が起きた。

わたしの話を聞いて、代わりに怒ってくれる友達や先輩
たちを見ていて、わたしの問題は、怒りという感情を
使わないことによって生まれているのでは?ということ
に、気づいたのだ。

わたしの問題、というのは主に人間関係についての問題
なのだけど、どうやらわたしは、いつも何かと損をしているらしい。

自分ではそれでもいいと思っていたし、損得を基準に人
付き合いをしたいと思わないから、このままでいいと
思って生きてきた。

けれどそんなわたしに、「もっと自分を大切にしてほしい」「もっと人の本質を見なきゃだめだよ」と忠告してくれる人たちは、当の本人よりも怒りに燃えていて、
真剣な目をしていた。


少し前までは、わたしのためにこんなに怒ってくれる
人がいるってありがたいことだな、なんて悠長に思って
いたのだけど、今まで穏やかに話を聞いてくれていた
ひとりに同じように真剣な目つきで訴えかけられて、
はっと我に返った。

このとき、はじめて気づいた。

わたしには「怒り」という感情が、欠落しているのではないか、と。

「怒り」という感情を抱かないから、自分が傷ついても
ほとんど何も感じず、というかそれでも幸せなんて
呑気なことを思っていて、何度も同じことを繰り返すの
ではないか、と。

急に、頭から冷水を浴びせられたような気分だった。

いや、冷水はもう随分前から降ってきていて、今、ようやくそれがぬるま湯ではなく氷点下にもなるほどの冷水だったことに気づいた、と言う方が正しいかもしれない。


「怒り」の代わりに抱いていた感情は、何だったのか。

それはたぶん、「切なさ」だ。

好きな人の好きな相手が、自分ではないこと。
それを知っていてもなお、一緒にいようとすること。
目の前にいる相手のことだけを、信じようとすること。

これら全てを、わたしは「切ない」という感情のラベル
が貼られたフォルダに振り分けていて、大切に、大切に
仕舞い込んでいた。

何度も取り出しては、眺めたり思い返したりしていた。

だから、わたしはずっとそれらの記憶を「大切な思い出」だと、思い込んでいたのだ。

「切ない」という感情と結びつけて、丁寧に、何年も。

それに気づいた途端、自分はなんて馬鹿だったんだろう
と思った。

思ったら、次第に「怒り」が、どこからともなくやって
きて、胃の下の方からふつふつと煮えたぎるものを感じた。


「切なさ」を怒りという感情に置き換えて考えるように
なってから、わたしは前向きに未来を考えられるようになった。

くよくよ悩んだり、記憶の中に浸ったりすることが
ほとんどなくなった。

「怒り」は、それ自体を燃やしてエネルギーに変えることで、前向きな行動を起こす体力を生み出してくれるものなのかもしれない。

だから、なにかを変えようとしている人たちは、常に
怒っているのか。と、なんとなく、腹落ちした。


怒りという感情をあえて自分の中に生み出すことによって、前向きにはなったし、嫌なことや落ち込むことがあっても気にせず、次へ、次へと歩を進めることができるようになった。

ただ、それによって失われてしまうものもあるのでは
ないか、と、ふと思うこともある。

その出来事によって生まれた感情に溺れることがなく
なった分、その感情を立ち止まって理解する、という
こともなくなった。

精神的にはとても健康的なことなのだけど、それを続け
ていたら、わたしは色々なことに、気づけなくなって
しまうような気がする。

他人の感情の些細な変化や、根幹にあって簡単には見え
ないもの。

それだけじゃなくて、自分の気持ちすら、丁寧に見る
ことができなくなって、大きな網目からこぼれ落ちて
しまうのではないだろうか。

もしそうなったら、少し、寂しい。


強く、明るく、前向きに、さっぱりした心でいられるの
は魅力的でもあるけれど、わたしは、弱く、暗く、
後ろ向きでじめじめした感情も、同時に大切にしたい。

そういうものたち全部ひっくるめて、受け入れたい。

一番いいのは、感情に振り回されるんじゃなくて、自分
で好きなときに好きなように感情を操れること、だと
思う。

この体験や記憶は、しっかり感じておきたい。
目をそらしたくない。

そう思えるときは、逃げずにただそこに留まって、
ひたすら感情に浸ればいい。

これは、正面から受け止めなくてもいい、次に進むため
の燃料にするべき事柄だと思えるときは、怒りという
感情を引っ張り出してきて、次への原動力にすればいい。

そうやって、わたしは自分の感情を、適切なタイミング
で、適切な方法で、扱えるようになりたい。


「怒り」という感情ともっとうまく付き合って、自分の感情すべてを正しく使いこなすことができた先には、どんな世界が待っているのだろう。

そこは今よりもっと、自由に自分を生きられる世界だったらいいなあと思う。

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