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もう二度と会えない高松に恋して



一年前、はじめて高松に訪れて、全身で恋に落ちた。

高松に手繰り寄せられた心はずっと、薄ぼんやりとした薄縹色の海と、湿度をたっぷり含んだ灰色の空気を求めて、またあの地に降り立つことを、夢をみていた。


先日ようやく、その念願の地に、足を運ぶことが叶った。

前日は全く眠れなくて、夢と現実の狭間で、何度も何度もあの日みた高松の風景を反芻していた。

けれど驚いたことに、いざその地に立ってみると、あれ、となった。

なんだか違和感があった。

街に降り立った瞬間の匂いも、高松港の空気も、一年前、もっとも心を掴まれた、北浜アリーにあるお気に入りのカフェからの眺めも。

なんだか前とは違った。

正直にいうと、あのときほど、心があまり動いていなかった。



二度目だから、感動が薄れてしまったのだろうか。それとも、記憶をあたためすぎて、期待値が上がってしまったのか。

いろいろ考えてみた。

けれど、それだけじゃない気がした。

天気や気温、そのときの気持ち、一緒にいた人、空気感。ひとつひとつをとってみると、前回訪れたときとは細部が異なっている。

はじめて訪れたときは5月の頭で、まだ少し肌寒くて、しとしとと雨が降っていて、街全体が薄ぼんやりとしたヴェールに包まれていた。

その空気感を含む、丸ごと全部。それが、わたしが高松の街に恋をした理由だった。




今回訪れたのは9月の中旬で、まだまだ暑くて、それでいて日差しが強く、カラッと晴れていた。前回とは全く違う、高松の顔。

雨にしっとり包まれた高松の街に陶酔したわたしにとって、カラッと晴れた高松は、全く別の表情をしていたのだ。だからきっと、違和感を抱いたのだろうと思う。

もちろん穏やかに晴れた明るい高松も、心地よい風が吹いていて、思わず目を細めてしまうくらいすばらしかった。

だけどやっぱり、わたしにとっての高松は、初めて訪れたときに出会った、あのしっとりとした街が、「本来の姿」のように感じていた。



あの感動は、もしかしたらもう、二度と訪れることはないのかもしれない。

高松の「本来の姿」には、この先きっと、出会うことはないのだろう。

だけど記憶の中ではいつも、あの高松の空気、匂い、温度が蘇る。

戻ってこなくても、わたしの中に、あの日の高松は、ずっとある。

そう考えたら、もう怖いものはない。せっかくならもっと、高松のいろんな顔をみてみたいとも思う。



これからわたしは、一体いくつの高松に出会えるのだろう。

どんな表情でも、きっと高松が愛おしいことには変わりない。

こうしてまた、次に出会う高松に、思いを馳せる日々がはじまる。



高松に恋をした、一年前のお話。


旅の様子はInstagramにまとめています𓂃𓂂𓏸

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