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明け方の白昼夢


夢をみた。
何度も繰り返し、同じ夢を。

「どんな夢だったの?」と彼に聞かれたから
「今日が、何回もはじまる夢」と答えたら、
「なにそれ、最高じゃん」と、彼は軽快に笑った。

肺のあたりから弾むように出てくるあたたかい
笑い声が右耳をくすぐると、わたしは何度も
まどろみの中に溶け込んでしまいそうになる。

彼の声が好きだ、と気づいたのは、
ほんの数分前のことだった。

深い、少しだけ水分を含んだその声は、
わたしの心に染み込んで、心臓の下のほうまで
ぐうっと沈んでいく。

それが気体になって全身に行き渡るとき、
ああ、わたしはこの人のことが好きだ、と思う。


さっきまで繰り返し見ていた夢は、まったくもって
いい夢なんかじゃなくて、見るたびに不安だけが
ぼんやりと頭に残るような夢だった。

今日がはじまって、彼と駅でわかれて、
またしばらく会えなくなる夢。

「じゃあまたね」と片手を挙げて踵を返す彼の姿
ばかりが目の前で繰り返されて、ああ行かないで、
と思ったところで目が覚める。

目が覚めては、まだ彼が隣にいることを確かめて、
安心してまた眠りにつく。その繰り返し。

だけど、どちらが夢でどちらが現実か、
今のわたしには区別がつかなかった。

目を瞑ると何度も現れる彼の後ろ姿の方が、
今隣で眠っている彼の安らかな寝顔より、
遥かに現実味を帯びていた。


いつもは地震が起きたとしても目が覚めること
なんてないのに、今日はなんだか眠りが浅かった。

朝方、急に大雨が降ったせいかもしれない。
一人でいるときは絶対につけないエアコンが、
ずっとつけっぱなしだったせいかもしれない。

隣の彼は大きな寝息を立てて、なかなか目覚める
気配がない。

時折ぴくっと身体を動かすから、こっちまでどきっ
とする。夢の中でも彼は、ボールを追いかけて
走り回っているのだろうか。

目線の先で動いた彼の腕を見る。

艶やかで張りのある二の腕は、まるで洗い立ての
くだもののように瑞々しかった。

ライチみたい。

そう心の中で呟いて、もう一度触れてみようか
逡巡する。

だけどわたしは、ほんの数センチ先にある
その腕にすら手を伸ばせないまま、
また目を瞑るしかない。

こんなに近くにいても、自分から彼に触れることは、
なぜかいつもできなかった。


「映画館の匂いが、作れたらいいのにね」

昨日、眠りにつく寸前に彼はそんなことを
口にした。

彼はたまに、わたしが好きそうな、でも誰も
投げかけてこないような話題を、ピンポイントで
選び出してくる。

その瞬間に出会すたび、この人は魔法使いなのかな、
と思わずにいられなくなる。

「あとはなにがほしい?」
「うーん、パン屋さんの匂いは?」
「いいね。最高」
「夏祭りの後の匂い、とか」
「ああ、それもいい。夏の夜って、気になる子に
いつも連絡したくなるんだよなあ。あれ、なんなん
だろうね」

好きなものの話をしているときの彼の横顔はいつも
少年のようで、そんな彼の隣でなにも考えずに、
思いつくまま話すのが好きだった。

少年のような彼の隣にいると、こっちまで少女に
戻ったような感覚にとらわれる。
そんな時間がなにより心地よかった。


ふとした瞬間に彼の口から出てくる「気になる子」
や「好きな子」に自分がなる日が永遠にこないこと
は、もうずいぶん前から知っている。

知っているから、もう期待なんてものはずうっと
前にどこかに置いてきたし、なにも求めていない
から、何があっても「幸せ」以外の感情は湧かない
ようになっていた。

「この近くに、おいしいパスタのお店があるん
だよね。明日起きたら行ってみようか」

彼との間で「約束」という行為が成立するのは、
いつだってふたりで会ったときだけだ。

それも、期限は長くても翌日まで。
それ以上長い約束が果たされたことは、
ここ数年間、一度もない。

言ったことをすぐに忘れる彼のことだけど、
さすがに前日の約束は覚えているだろう。

そう思うと、なんだか心強かった。

たった数時間後のことだけど、それでも、
彼と未来の話ができるのは、嬉しかった。

「おはよう。よく眠れた?」

朝から軽快な声で笑う彼は、もう昨日のことなんて
忘れてしまったみたいにけろっとしている。

何度か目が覚めて、「もう少しだけ」と言って
引き延ばした時間も、そろそろ終わりがこようと
していた。

「昨日話したパスタ、食べにいこうか」

この部屋を出たら、わたしは夢から覚めてしまう。

次に会える日がいつになるのか、
わたしが知ることはない。

もしかすると来月かもしれないし、
もしかすると、来年かもしれない。

でも、昨日の約束を覚えてくれていたことだけは、
たしかな事実だった。

彼がはじめて自分が話したことを忘れていなかった
ことに感動しながら、「何味にしようかなあ」と
明るくつぶやいてみる。

この人と一緒にいるときの幸福度のレベルは、
たぶん人生で一番低いんだろうな。

思わず苦笑いしてしまうほど、今のわたしは単純だ。だけど今は、そんな自分が嫌いじゃなかった。

結局、彼の腕には最後まで触れられなかった。

あともう一回だけ触れてみたかったなあ、なんて
思いながら、パスタの大盛りをたいらげて満足そう
にしている彼を横目で見る。

次はいつ会えるのかな。

期待を置いてきたと言っても、やっぱりその感情
だけは、抑えても心に浮かんできてしまう。

「じゃあ、またね」

今朝みた夢と同じ場所で、彼が片手を挙げる。

ひとつだけ夢と違ったのは、わたしがうまく
返事できなかったことだ。

「うん、またね」

そう言ったときの顔はきっと、名残惜しさと
憎らしさと寂しさが入り混じった、この世で一番
可愛げのない顔だったと思う。

別れ際くらい美しくありたいのに、
わたしは未だにそれができたことがない。

ぎこちない笑顔に気づかれたくなくて、
すぐに改札に向かって歩き出す。

ちょうどホームにきていた電車に飛び乗る。

白くぼやけた車内はまださっきの夢の続きのようで、
これもまた夢だったらいいのに、と思う。

どこまでが夢でどこからが現実かもわからないまま、
まだ真新しい緑のふかふかした椅子に腰かけ、
わたしは静かに目を瞑る。

窓から入ってくる湿った風に乗って、
ほのかに彼の匂いがした。


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