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金木犀を、辿る夜


「最近知り合った人が撮る写真がさ、

もう、たまらなくいいんだよね。」


様々なジャンルの本が所狭しと並べられた、

風通しの良い、明るい店内。

わたしたちは、お気に入りのブックカフェで

それぞれ思い思いに本を読んでいた。

気づくと外はもう日が落ちかけていて、

橙色と淡いグレーが混ざったような、

ぼんやりとした色の空が見える。

お店に入ってから2杯目のアイスコーヒーを手に

席に戻ってきた彼は、ソファに腰掛けながら、

そう言えばという感じでぽつりとつぶやいた。

彼がそんな風に誰かのことをわたしに話すのは

珍しかった。

なぜか、心がどき、と音を立て、

わたしは反射的に背筋をぴんと正した。


彼が誰かを褒めるときは、心が相当動かされた

ときだけのはずだった。

そのことは随分前から知っていたから、

その一言を聞いた瞬間、心がざらっとした。

「どこがいいの?」

咄嗟に口を突く。

わたしがこんなに彼の話に食いつくのも

珍しかったから、それを彼に悟られないよう、

ゆっくり、言葉を付け足す。

「わたしも、その人に、会ってみたいな。」

心なしか自分の声が震えているような気がして、

かき消すようにアイスカフェラテを口に含む。

けれど予想に反して彼は、

「うーん、なんか、全てがいいんだよねえ」

と、伸びをするように言った。

全く彼らしくない、曖昧な返事だった。


彼は、自分がいいと思ったものに対しては、

それを表現するのにぴったりな言葉を見つける

ために、いくらでも時間をかける人だった。

どうしたら自分が感じている高揚感や感動を

相手にも同じ温度で分かってもらえるのか、

言葉を丁寧に探し、大切そうなまなざしで

こちらに語りかけてくる、そのときの表情が

わたしは大好きだった。

だから、彼からそんな雑な返答がきたことに、

わたしは拍子抜けしてしまった。

そして、思わず早口で聞き返す。

「え、全部?どういうこと?」

けれど、それ以上彼からの返答はなかった。

ただ、大切な宝物の隠し場所を、

自分だけが知っているんだと言わんばかりの

満足そうな微笑みが返ってきただけだった。


今度はわたしも、それ以上は聞かなかった。

もし彼から何らかの答えが返ってきたら、

次はその人の性別と、どこで出会ったのかを

聞こうと思っていた。

けれど、性別は、聞かなくてもなんとなく

分かったような気がして、彼から何の返事も

なかったことに、むしろ安心している

自分がいた。

この話を持ちかけてきたのは彼の方なのに、

なぜかこちらが後ろめたい気持ちになった。


さっきからざわざわと音を立てる心臓が、

わたしの意識を流れてはいけない方に

流そうとする。

そして、次第に見えない黒い感情が、

心臓の下の方から静かにゆっくりと

大きくなっていくのを感じ取って、

あ、いけない。そう思った。

もう、これ以上このことについて考えたら

だめだ。詮索するのはやめよう。

久しぶりに見た、高揚感を隠しきれない

彼の瞳から目をそらし、今の会話は

全部なかったことにして、わたしはパタンと

読んでいた小説を閉じて立ち上がった。


「もう暗いし、そろそろ帰ろうか」

外はまだ18時にもなっていないというのに、

さっきの夕暮れが嘘のように、

あたりは漆黒の闇に包まれていた。

星ひとつない、しんとした真っ黒な空。

ひやっと肌を撫でる夜風に、秋の訪れを感じた。

このなんとも言えない、寂しさをたたえる

静かな夜が、好きだった。


曲がり角に差し掛かったとき、

「あ、秋の匂い。」

言ったのは、ほぼ同時だった。

顔を見合わせる。

暗闇の中、彼は自分の鼻先に届いた

金木犀の在り処を探し始めた。

「あ、ここに咲いてたんだね」

わたしが指を指すと、

「ほんとだ。見つけるの早いね」

満足そうに笑って、カメラを取り出す。

カシャッという、耳に心地よいシャッター音が

闇に響く。

静かな闇に、ほんのり甘い、上品な香りが漂う。

甘い香りなのに、どこか切ない気持ちになる、

この香りが、わたしは小さい頃から

大好きだった。

わたしもこの花みたいに、彼の嗅覚に、記憶に、

ちゃんと刻まれているのだろうか。

そう思ったら、急に愛おしいような、

寂しいような感覚がぐっと力強く、

底の方から込み上げてきた。


「お待たせ」

ひんやりとした空気の中、

わたしたちはまた、並んで歩き出す。

手のひらだけが温かく、心地よかった。

彼の横顔を、ちらりと盗み見る。

満足そうに鼻をひくつかせながら歩く彼を

横目で見ていたら、さっきの黒い感情は、

とろんと溶けて優しい色になった気がした。


この人は、まるで金木犀のようだな。

ふと、そう思った。

一年に一度、それも秋口に一週間くらいしか

咲かない花なのに、一度その香りを嗅いだら、

その先永遠に忘れることはない。

夏が終わると、その香りを求めて、

暗闇を記憶が辿っていく。

甘く優しい香りをさせながら、一瞬だけ

控えめに姿を現し、気づくと消えている。

その存在感は強烈なのに、どこか、

いつも遠くて儚い余韻を残した。


わたしはあと、何回金木犀の香りを

辿ることができるのだろう。

その時、彼はまだわたしの隣に

いてくれるのだろうか。

喉の奥につんと鈍い痛みが走ったことに

気づかないふりをして、わたしは儚い手のひらの

温もりを、もう一度、強く握って確かめた。

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