私はあなたのファンではありません。

今年叶えたいと思っていた夢が叶った。

小学生の頃、いや、幼稚園生の頃からもしかしたら願っていたものかもしれない。
それは、或るバレリーナとの共演だった。
私は幼稚園生の頃から、小学校6年生の頃に今の専門領域に出会うまで、クラシックバレエを習っていた。
通っていたお教室は、最高の環境だった。国際バレエコンクールに何人もの入賞者を輩出しているようなところで、私のクラスメイトだった人達は、世界中のバレエ団で活躍している。
私は母に連れられて、そこに週に3日通っていた。

踊ることは好きだった。
けれど、週に5日踊りたいとは思わなかった。

夏休みになっても「嬉しい!毎日踊れる!」とはならなかったのだ。
幸いなことに、私の母はそんな私に「やめろ」などと催促することはなかった。そんな辞め方をしていたら、私はバレエに未練を抱えたまま、バレエを嫌いになっていたと思う。地上に出ている芽だけを摘んでも、その下の根は地中深く伸び続けるのだ。
私は、踊ることが好きだった。だんだん発表会で真ん中で踊ることが少なくなっても、それでも、好きだった。

私がバレエを辞める日は、突然来た。
バレエ以上に興味のあるものが出来たのである。
私はそれを極めるために、バレエを辞めることを決めた。
自分の人生の中で、物事を天秤にかけた、初めての瞬間だった。
バレエを辞めて音楽の道に行くと決めたことは、私にとっては諦めや逃げでは無かった。
目指すものは同じだけど、歩くルートを変える。
その表現が一番近いと思う。
私は進路とともに一つのことを決めた。
将来、私の憧れているバレリーナの舞台のピットに入ること。
それが出来たら、私の選んだ道は正しい道だという、幼いながらの答え合わせの方法だった。
その決心を私は長らく忘れていて、思い出したのは去年の年末あたりだった。

私は長らく学生をやっていて、目の前の課題をこなすうちにどんどんバレエからは遠ざかっていた。
遠くから眺めていた山は、いざ登ると岩だらけで、登ったのに足場が崩れて道が断たれたこともあった。本当の山のように、進む地面があればまだマシな方だ。落ちたら真っ逆さまなのでは、というようなクレバスを飛び越えることの方が多い気がする(現在進行形)。
学業の傍ら始めた仕事の中で、その話は突然舞い込んで来た。
「●月●日〜●月●日、空いてますか」
日程の確認の後に送付された簡潔な依頼書。
その内容をインターネットで調べ、そこに今まで憧れ続けていた女性の写真が載っているのを目にした私は、驚きのあまり指を震わせ、肺呼吸に支障をきたした。胸の鼓動が激しくなっていく。酸素をどんどん身体中に送っているんだな、そんな関係のないことを考えた。
小学生の頃に決めた夢(というか目標)は、そんな感じで叶うことが決まった。


浮かれていたのはその日だけである。
託された曲は相当な難曲で、合わせの回数も多くはない。曲を仕上げていくのに時間はなかった。ゲネプロの時も、ピットから彼女の姿を見かけることはあっても、なんの感慨も無かった(その余裕がなかったのか??)。本番が終わると、その度に気になった箇所の復習をして、翌日に備えて酒を飲んで寝る。そんな日が続く。仕事に遅刻しないこと、体調を崩さないこと。そして最後は神頼み。憧れや夢なんてふっとんだ世界。

公演初日の幕が上がる前、一度彼女と舞台裏ですれ違った。私はその時だけは「あっ」と思い、感慨が胸から喉にかけて迫り上がるのを感じた。
しかし、彼女は、オーケストラの団員の一人など、気にも留めていなかった。冷静に考えれば、本番前の極度の集中の中で知らない人に微笑みかける余裕など無いだろう。私はそれでも、縮まったと思った彼女との距離が、幻想だったと感じた。

一週間にわたる公演が終わった。
楽日の開放感は、舞台に関わった人でないと味わえない醍醐味だと思う。それと同時に去来する寂しさ。今まで確かに存在していた小さな宇宙が、急速に遥か彼方へ遠ざかっていく感覚。
明日になれば、劇場は別の演目のためにセットを組み始める。奈落の壁に刻まれたサインは風化する。劇場を出ればそこは雑踏の中だ。私の身体は民衆に埋没する。
劇場を全て見届ける怪人がいるのなら、どうか今回の演目を忘れずに記憶に留めていて欲しい、そう願いながら黙って私は楽器をしまい、ピットを後にした。

ステージ裏に通じる階段を登った先に、彼女がいた。
「Bravi!!」
彼女は、私たち一人一人をしっかり見て、笑顔で手を叩いた。
その目、その顔を私は一生忘れない。
長年の憧れだった彼女が私に向けた表情は、同じ道を歩む者に向ける賛辞だった。ファンやカメラマンに向ける微笑みや、舞台が終わった後のカーテンコールの笑顔とは違う表情。
この顔を私はずっと見たかったのだ。
私はその一瞬だけ、ファンに戻った。
幼い頃の自分にこの光景を見せたい、そう思いながら瞬きをした。
そして目を開けると、彼女をしっかりと見つめて、拍手と賛辞を送った。

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